栃木県




1、はげしい寒暑の差

 ここはもとの下野国で、江戸時代にはいってからは最大の字都宮藩が六万、あとは十の小藩に分かれ、さらに天領と日光山領が入り組んで政治情勢は複雑であった。

 海に面せず、南の平野部を除けば大部分が山地て、内陸特有の寒暑の差が著しく、関東地方では最寒最暑の地となっている。

 下野国は元来中仙道に属し、上野国から新潟、長野を経て都と連なっていた。

 関東の開拓は中部日本から上野、下野、武蔵と進められたから、いまの東京地方より早く開けたところである。

 また県内には古墳をはじめ古代の遺跡が多い。

 下野国の東半分は古くは那須国で、下野地方とは人情も体質も違っている。

 これは朝鮮からの帰化人が太平洋の海岸をまわって那珂川の流域にはいり、那須地方を開拓したことによるものである。

 いまでも千二百年前に新羅の帰化人が建てた那須国・造韋提の碑が残っている。

 那須地方にはいってきた人々には、中央政府の影響や気風を多くもっていて、北関東型の下野の人と異質な点が多いが、帰化人による開拓にもかかわらず、寒冷で地味が低いために、烏山、馬頭などの町も大きく成長することがてきなかった。

 畑地産業が中心でのちには養蚕とたばこが主たる産業になった程度である。

 下野型の代表は宇都宮付近の人々で、群馬県とも似た性格があり、筋骨質の体型をもち、非常に自意識が強く、実行力もそなえている。

 しかし、理屈っぽくて形式にこだわる点があり、そのいい例ば栃木市にあった県庁を、そこには藩がなかったという理由て宇都宮藩の所在地に移したことである。

 また県内同士で足をひっぱりあう傾向をもつのも弱点の一つだろう。

2、足利草氏の影響も

 この県の歴史で忘れられないのは、平将門を討った俵藤太秀郷が唐沢山を根拠地にしていたことと、足利時代をつくった足利尊氏が出たことである。

 両者とも一種の抵抗の英雄で、いまも栃木県人に反骨の気概が流れているのは、この歴史ときびしい風土のためだろう。

 足利氏は源氏の一派で、鎌倉を守るためには北関東をおさえなければならないという政策から足利に派遣され、地名を取って足利氏となった。

 ばん阿寺という寺を中心に当時の平城(単坦地に築かれた城)を作って本拠とした。

 行政区画の上では群馬県に属するが、その西南の新田郡生品村からは、同じ一派てある新田義貞が出ている。

 つまり同じ地域の人が対立し、足をひっぱりあってついに滅ぼしてしまうという栃木の県民性の一端が、足利氏対新田氏の歴史にも残っているのである。

 『太平記』や頼山陽の見解のせいで、尊氏はすっかり逆賊という悪役を与えられてしまったが、じつは先見の明があり、現実的な政治家で、土地を中心にした経済制度がまだ使命を果たし終えないことを見通して封建制を守った人である。

 その点、後醍醐天皇は青自い秀才型の理想主義事で貨幣経済制を実現しようとして失脚の原因をつくった。

 政治家としても人物としても、尊氏ば楠木正成よりだいぶ上だったのてはないだろうか。

 しかし尊氏時代はもう鎌倉に住んでいたので、義満、義政になると地域の影響はまったくない。

 しかし、足利学校を作って図書の解放と子弟の教育を行なった意義は大きい。

 金沢文庫とともに、中世日本での珍しい文教の地となったのである。

 そんな教養による自負が、ときには理想家肌の人を生むらしい。

 そのうえ、江戸初期になると古来の修験の名山二荒山下に、日光東照宮と輪王寺ができた。

 幕府権威の象徴である華麗な宗廟である。

 例幣使街道(日光街道)は奥州街道とともに五街道に列し、将軍や諸侯のきらびやかな行例を迎えた。

 この刺激は県内の文化を高めたが、同時に門前町的な依頼心も育てた。

 とくに多くの温泉の開発は、観光地にありがちな依存生活の傾向を強めたようである。

 しかし一方、寺院食からひろがったカンピョウ、ユバ、シソ、唐辛子、コンニャクなどの特産物があり、その保存食品としての加工は生産の低さから出た現金収入の手段であったから、これを通して依頼心とは相反する勤勉な性格も育てられている。

 また江戸時代には渡良瀬川によって江戸に送られた木炭や鋳物類の生産がさかんになり、これも人々に勤労の美徳を教えたようである。

 炭成金・佐野次郎左衛門の生地佐野は鉄にもめぐまれて、幕末まで鋳物業の中心地てあった。

3、相反する性格の混在

 強気と弱気、打算性と非合理性、反抗性と消極性、向こう見ずとだらしなさ、といった一見正反対の性格の混在が、この県民の特色である。

 そのいい面を強く打ち出したのがソニーの井深大、政治家の船田中などの成功者であり、故人では足尾鉱毒事件に立ち向かった田中正造だろう。

 田中正造の生涯は、抵抗反発と正義愛好によって貫かれている。

 悲壮というか、みごとというか、まさに長敬に値する。

 終始、理想主義に情熱を傾け、正義に殉じ、何回もの入牢や拷間に耐えながら足尾鉱毒という公害告発に一生を捧げ、酬いを求めず、不遇の中て死んでいった。

 生涯をかけてこんなことをやる人は非常に少ないが、それが偉人といわれるゆえんである。

 彼の性格は、強い正義感が若いころからのたびたびの投獄によって、さらに強烈な「触発現象」を起こしたのだろう。

 田中正造の生涯は、この県の人に流れている抵抗と強気の典型てあり、強い正義愛好の理想像てもある。しかし、まれには県民中に社会性に長じた操欝質の人や、てんかん質の人も混っているが、その数は少ない。

 体型は北関東型の典型。

 女子には美人が少ないといわれる。

 那須地方の人には茨城の、県南の人には東京湾沿岸の影響が見られ、大田原以北には東北型の美人が混っている。