秋田県




1、美人が多いのはなぜ?

 秋田といえば「美人と酒」が古くから有名である。

 「秋田の女、なんしてきれいだと、聞くだけこけだえす

 小野の小町の生まれた在所、おめえはん、知らねアのきゃア

 と「秋田音頭」にもある小野小町は、この県の南、やはり美人で有名な湯沢のまた南にある雄勝町が小野の出生といわれる。

 ところが小野小町の出生地や墓は日本中にあって、どれがほんとうなのか決めようがない。

 しかし、平安朝の代表的美人を本県出身と連想してふしぎでないほど秋国県には美人が多い。

 しかも雄物川の上流地方には、典型的な古代京都型美人が見られる。

 美醜によって評価することは女性に対する侮辱てあり、女性を物品化している証拠だというお叱りもあるかもしれないが、そんなこわいことはいいっこなし、秋田美人という一種の憧憬と敬愛をもったことばの内容をもう少しさぐってみよう。

 一口にいって、秋田美人とはややコケシ型の美人てある。

 円顔で鼻は高くなく、ロは小さく色白で、皮下脂肪はやや多く、胴が長くて手足は太い。

 色が白いから生え際はきれいだが、毛深い人は少ない。

 これが、このまま現代にも普遍的な美人として通用するかどうか即断はできないが、温柔て家庭的、忍耐強く、よく男につくしたので、昔から日本の男にとって理想の女性像の一つてあった。

 ただ、内向的、保守的で近代都市の生活にはあまり適応しない人が多い。

 このような秋田美人がどうして生まれたかということについて、二っの説がある。

 硬水を使っているから肌が標自されたとか、雪の中て白くなったというような非科学的な説はぜんぜんダメだが、一つは血統的に白人に近いアイヌかシベリアあたりの血がはいっているという説であり、もう一つは古代畿内人の血が移され、隔離されて重複し、それが環境順応でメラニン色素が少なくなっていったという説である。

 私は後者の説をとる。

 それはこの県の歴史に古代畿内の人々の流入と隔離があきらかであり、全体の生体測定値ではアイヌやシベリア古族はむろんのことまして古シア人(スラブ人)などとはまったく間係がないことが示されているからてある。

2、東北弁は言語学の宝庫

 秋田弁も畿内古語と古音を今日に伝えている。

 「橋の下で、河童コがかっぱコ産(も)た。

 親コもかっぱコ、その子もかっぱコ、親かっぱコ、子かっぱコだ」と、コぱかりつづいたのては何がなんだかわからなくなるが、この名詞に子をっける慣行も、平安時代の標準語の生き残りである。

 いまの日本語は五十音で、第一行が全部母音、第二行以下は全部母音・子音の結合である。

 その結合のとき、サ行を例にとると、サ、シ、ス、セ、ソの子音は一種類しかない。

 ところが『古事記』では八十八音、『万葉集』では八十七音ある。

 これはふつうのサ行のほかに服のようなスァ、スィ、スウというのがもう一行ある。

 要するに全部ではないが二行になる音があり、二倍に近い発音の習慣があったのである。

 いま私たちが使っている五十音では、ワ行のワの発音だけは完全だが、井(ウィ)はなくなってア行のイを発音している。

 しかし東北地方てはいまでもはっきりウィといっている。

 東京の人は、東北の人が「すし(寿司)」のことをススというと思っているが、じつはsiciのスィという発音を聞きちがえているのである。

 秋田弁には、八十八の古代発音のうち六十七、八音が残っている。

 国定教科書によって五十音を押しつけた明治教有以来、これもどんどん失われているが、田舎のお婆さんなどは正確に使いわけており、とくに民謡を歌わせてみるとよくわかる。

 会話はしだいに標準語化しても、東北人が歌う東北の民謡には古い発音が保存されている。

 これは奈良時代にはじまった開拓が、平安初期までつづけられ、近畿地方から多くの移住者が送られたが、その後ふっつり途絶えて地域的に孤立し、封鎖されたまま明治維新を迎えたことの生きた証人である。

 九州にも古代語が残っているが、語彙が古代的なだけで発音は標準語化している。

 したがって東北弁は言語学の宝庫であり、考えようによっては千年前の標準語なのてあるから、東北人も方言コンプレックスから脱出してもらいたいものである。

 金田一京助博士の研究によっても明らかなように、東北弁にはアイヌ語との混合は一語もない。

3、秘められた情熱

 この地域の開拓は、雄物川上流の由利の柵からはしまって下流に進み、のちに米代川流域にまて及んだ。

 その後、戦乱もなく、住民の交替もなく、近世初頭に佐竹藩がはいって少数の武士階級が移住して来たものの、すぐ一般に同化し、そのまま250年が経過して明治を迎えた。

 この県ほど住民の流動が少なかった県はめずらしい。

 これが人々の体格、性格・言語、憤行などを固定し、奈良・平安の古い姿を残した理由と考えられる。

 体質的には、秋田の男性は京都型の低血圧質に属する人が多く、わりあい繊弱で肌がきれいな“やさ男型”である。

 それが長い間近親婚をくり返してきたので、一種の劣等感が生まれて性格開放を妨げる結果となった。

 秋田の男性が秋田型でない女性と結婚したり、秋田の女性が違った地域の違った体質の男性と結婚すれぱ、「触発現象」によってよい子どもにめぐまれるだろう。

 性格は男女とも鈍重な人が多いが、なかには分裂質やてんかん質の人も見られる。

 歴史的な英雄がいないのは、江戸幕府にけむたがられた人々が外様として追いやられたという立地案件によるものだが、中央政府に出てこられない人たちが隔離社会をつくったので、いよいよ劣等感が強められたのてあろう。

 この県の年中行事に竿頭(秋田〉、かまくら、盆踊り(西馬音内)のような静的なものとともに、なまはげ(男鹿)、眠流し(能代)、おやまばやし(角館)のような動的なものがあるのは、県民性の底に情熱的て豪放な一面が秘められていることを物語っている。

 なまはげは、鬼の顔をした山の神が正月に下りてくるさまを人間が代行してみせる模倣呪術で、日本における演劇の宗教的な起源の一つてあり、かまくらは水神の祭りで、日常住んている家と違った場所(忌小昼)をつくり、別の火て炊事をして体を浄化し、水神に豊作を祈願する行事だが、いまは子どもの遊ぴ場や観光名物になってしまった。

 秋田の人々はこれらの行事を演出するときは、酒によって爆発的な惰熱をあらわす。

 豪雪と封建制の桎梏を、彼らは古代的な祭祀によってはねのけてきたのである。

 これが東北人の精神構造の根底にあるために、保守的に見えながら突然めちゃくちゃに突っ走ることがある。

 八甲田山の雪中行軍の死亡事件などはその典型だろう。

 明治以来きわだった人物が出ない中で、執念のような古美術収集家平野政吉、奈良磐松、同じくしぷとい実業家・山下太郎、実行力の権化のような日大会頭だった古田重二良、特異な作家石川違三などは、それぞれ秋田の地方性の一面を代表している。