宮崎県




1、温和で競争心欠く

 東は太平洋に面し、三方を山に囲まれた宮崎県は、まさに文字どおり日向国で、日に向かい日を受ける明るい県である。

 黒潮はそのはるか東南沖を流れ、日南海岸には亜熱帯樹が茂って、“光の国”と呼ぶにふさわしい。

 しかし、そのわりには生産が低く、経済的には後進県である。

 その点では大分県によく似ており、火山灰地が多く、台風をうけて農産物に被害が生じるところは鹿児島県にも似ている。

 江戸時代にも諸藩は貧困であり、農民もまた窮乏して、一揆が多かったことは有名てある。

 その原因は、根本的には地味の低さであり、社会的には生産技術や経済機構の立ち遅れが禍いしている。

 したがって、いまでも県民性に進取の気風や積極性に欠けるところがあり、小成に安んじ、弱気でがめつさがないという弱点がある。

 しかし、これは反面、質朴、善良、正直で忍耐力があり、人に警戒されないよさを生んだが、残念なことに文化が低く、経済はむろんのことすべての分野において後進的であることをまぬがれない。

 北では延岡の工業化が早く進んだが、南には長いこと工業が興こらなかった。

 そこで北部はやや都市的性格をもつが、県南は非常に保守的である。

 しかし、昭和以後、とくに戦後になって新婚旅行の習慣が全国的に広がり、日南市付近は暖地性植物や南国的な風光によって新婚旅行のメッカになった。

 県南の観光資源はこれからもきらに開発されることだろう。

 “白たまの歯にしみとおる秋の夜は 酒はしずかに飲むぺかりけり”

 この県の生んだ歌人・和歌山牧水の酒の歌は広く知られている。

 私のもっとも好きな歌の一つだが、これは酒に対する諦観以前に、牧水を通じて宮崎の県民性をよくあらわしている。

 っまり、肩を張って他人と争うようなことには少しも生き甲斐を感じることなく、温和で誠実な心の持ち主が多いところなのである。

 宮崎県人が経営者としてより、従順な使用人として好まれるのもこの点からだろう。

 現に、東京の観光バスのガイドは、この県の出身者がいちばん多く、その評判はたいへんによい。

 しかし、美点は往々にして欠点になる。

 激しい情熱に乏しく、のんびりムードで、弱気、温和で競争心が少ないということは、他人の下積みになり、立ち遅れる危険をもっている。

 分裂質やてんかん質が少なく、躁欝質が非常に多いことは、特殊な大成功者や偉人を生まない原因になっている。

 この地方の保守性は、古い文化財や習俗を守ってはきたが、同時に開発を遅らせてしまったのである。

2、民度の低い山間部

 椎葉地方の「稗搗節」は、いまでは全国に知られている。

 貧困農村の哀愁を帯びた民謡である。

 しかし、この貧乏は山仕事が主で現金収入が少ないということであって、盗みをしなければ食べられないというほどのどん底生活ではない。

 稗は年二回もとれ、寒くても暑くても不作ということはないのてある。

 日本一の長寿村は神奈川県二宮だが、ここはその次ぐらいに長命な人が多いのではないだろうか。

 物産少なく、民度の低い山間都では、最近まで稗栽培や焼畑が行なわれてきた。

 要するに貧乏ではあったが、悪人は出ず、善良な人の多い隔絶した地域だったのである。

 “おまや平家の公達ながれ

 おどま追討の那須の末

 郡須の大八鶴富すてて

 椎葉立つときゃ眼に涙

 泣いて待つより野に出てみやれ

 野には野菊の花ざかり”

 というこの地方の悲恋の歌謡は、悲劇の中に散った平家残党の伝説を伝えている。

 全国の平家落人部落のほとんどすべてが、平家とは無縁であることはすでに明らかである。

 それは隔絶転落村落の“貴種伝説”にすぎない。

 しかし、ここでも隔絶村落の人々は、この“貴種伝説”にわずかな誇りと希望をつないて生きつづけている。

 そのほうがずっと悲劇的だが、それを悲劇と自覚しないところに深刻な悲劇性があるといえよう。

 宮崎県と鹿児島県で本家争いをしている高千穂伝説にはあまり触れたくないが、ここにもその類型の一つが認められる。

 鹿児島には天の岩戸といわれるものがあるが、暗い妙なところで、ここが高天原だと信じ込ませようなどということは、民度の低さをあらわす以外の何ものでもない。

 しかし、とにかくここは、天孫降臨神話を現実の史実と信じて生きている人々の住むところなのである。

 それはそれで、そっとしておきたいし、あまり観光に利用されたくないのだが、最近、天岩戸神楽をやるところに、一日に三十台も観光パスが客を運んできて金儲けをやっている。

 歴史ものブームの余徳と喜んてだけいてはいけない問題がある。

3、望まれる近代化

 それよりも私は、かって延岡で栄えた日向第一の豪商小田家の経営を、ここで思い出したい。

 小田家は延岡の牧野家や内藤家と結んで、今日でいう合名会社を最初に設立した。

 大阪の回船を延岡にまわして国内の物産を上方に運び、大阪で米を仕入れて九州各地に運んだ。

 その功績を認められて士分にとりたてられ、延岡郊外の須恕江村を知行地として与えられると、農民に助力米を与えて開墾につとめ、農地改良や植林を積極的に行なって、貧しい村をりっぱに立ち直らせたのである。

 こんな合理性や近代性が、一見保守的でのんびりムードの県民性の中にひそんていることを、けっして見逃してはならない。

 いまこそこれを引き出して、県の体質を改善し、再建に力を注ぐべきてはないだろうか。

 宮崎県は、ほとんどが山地というあまり恵まれない立地条件にある。

 山の間発には限度があるものである。

 しかも平地は地味が低くて台風が多く、水田や在来の物産にはたいした期待をかけられない。

 そこで山林経営と暖かさを利用した促成栽培農業が脚光を浴びるようになった。

 観光事業とともに、促成栽培が全国的に有名になる日は近い。

 しかし、なんといってもこの県を根本的に救うのは近代工業である。

 なぜ県南に工業が発達しないのだろう。

 過去の立地条件はとにかく、公害の危険が非常に高い内海沿岸ばかりを工業化し、宮崎県のように外洋に面しているところに工業が発達しないのはふしぎというほかはない。

 「日の国」に陽の輝きが増すのも遠い将来ではないことを期待したい。