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1、天領・日田の繋栄 古くは“豊の国”と呼ばれ、大化の改新によって豊前、豊後の二つに分かれ。 明治以後、豊前の一部が福岡県にはいり、残った下毛郡、宇佐郡と大分市を中心にする豊後国がいっしょになって大分県ができあがった。 “春の野に出て七草摘めば 露は小棲にみな濡れかかる よしておくれや鬼あざみ 春の月隈 月影ふんで 主を待つ間を木陰によれば よしておくれや花が散る” まったく端唄風のしやれた歌詞だが、これが大分県も西北隅の山間都市日田の民謡「コッコツ節」である。 筑後川の上流にあって、いまは水郷として名を知られているが、どうしてこのような山間にこんな文化が進んだか、ふしぎというほかはない。 しかし、それには大きな理由がある。 大分県は中津十万石を最高に、小藩が八つあったが、江戸初期から維新まで移動せず同じところに在留したところである。 これは珍しいことで、「コッコッ飾」の日田はその山間部、北九州の中央にある天領てであった。 ここには江戸から派遣された代官か郡代が駐在していた。 ところが昔から「天領百姓怠け者」といわれるように、天領の年貢率は低く、ほぼ五公五民であった。 したがって、日田の農村はうるおい、代官はこの山中にあって、北九州諸藩に対する目付の役を果たしながら、各藩の経営や動向を監視していた。 つまり、城下町でもないのに日田は都市的に栄えたのである。 日田の商人は諸大名に金融し、諸藩の米を抵当にして最低でも年一割二分という利息を稼いだ。 これを「日田金」という。 これでは日田が繁栄するのは当然で、その生活程度と文化は山中とは思えないほど進んだ。 これが「コッコッ節」を生む背景をなしている。 これに対して、諸藩は日田代官の監視をうけながら、零細農地を対象として苦しい経営をつづけなければならなかった。 藩と藩との交流が少なく、対抗意識も強かった。 これがいまの大分県民の性格にも尾をひいている。 県民としてのまとまりが悪く、大きい発展ができないのは、封建制下の長い苦しさが原因になっているようである。 2、惜しまれる狭量さ この県の大部分は阿蘇火山、別府火山の火山灰地帯と凝灰岩地がらできている。 強い酸性土壌で地味は低い。 これも県民性の中にエゴィズムや狭量さを育てた条件に数えられる。 がめつく、ずるがしこいといわれるのも、この生産の低さと生活の苦しさから出たものだろう。 歴史的にも、地形的にも、県内が小ブロックに分かれていたことは、島国的な孤立性やセクショナリズムを強めたようである。 そのうえに、熊本県と接している関係から、熊本の県民性とも思われる反抗的な武骨な性格が重なっている。 はっきりいえば、大分は九州の中でもっとも性格的な興味の簿いところてある。 瀬戸内梅に面している県は、みな自己開放がよく行なわれ、明るさをもっているのだが、大分県だけは内海に顔を向けながら、例外的に保守的である。 平清盛は安芸守になる以前は、豊後守であった。 つまり、隆盛をきわめた平家がかつてこの地を根拠地にしたくらい重要な場所ではあったのだが、平家滅亡の前に平家にそむき、繁栄のチャンスをみずから失っている。 これに象徴されるように、大局的な見方のなさがこの地方から大成功者が出ない理由の一つになっている。 小さい点では正直で、たくさんの長所もあるのだが、自己開放がてきず、郷里から飛び出して新天地を求める人も少なく、生産が低いからどうしても内にこもって、ただ家を継ぐだけに終わってしまうのである。 しかし、その反面、人間は素朴で親切、誠実なところがある。 なによりも熊本などと大きく違うのは、とっつきやすい社会性をもっていることだろう。 これは昔、大分が府内といわれていたころ、大友宗麟が西欧文化を流入し、キリシタンや鉄砲を入れて、教会をつくったり、鉄砲の生産をはしめたりした、この進取的な気風がうけつがれたためだろう。 海岸地方には、社会性ゆたかな人もあらわれて、他県で成功することがあるが、ただし成功はつねに単独の場合が多いので、大成功は期待てきない。 要するに大友宗麟は“あだ花”であり、彼の時代にかぎってパッと進歩の花が開いたが、あとをひき継ぐ人は出なかった。 彼に招かれて府内にやって来たヨーロッパの宣教師がさかんに町のようすを書いたので、外国人は長いこと大分を近代的な都市と思ってきたようだが、じつは非常に保守的な古い町に逆戻りしてしまったのである。 福沢諭吉は豊前中津藩の人だが、商人的で調子のいい性格をもち、明治維新の人物群の中では一人だけ違ったよさをもっている。 だが、一般に大分の人には、福沢のような多様性や柔軟性はない。 一つのことを思い込めば、それっきりなのである。 おそらく福沢はそれを自分たちの欠点と思い込んで、つとめて自己改造をしたのだろう。 もっとも、彼の生まれた中津は福岡県に近い気風をもったところである。 もし彼が大阪に出て緒方塾に学ばなかったら、田舎医者ぐらいて終わってしまったのではないだろうか。 福沢の近代性は「触発現象」によるものである。 この県には努力型で、計画性に富んだ人も少なくない。 3、明日を救う再開発を 福沢のような触発の適応性は低いところだが、これがそれを補っている。 しかし、せっかくの努力や計画性も、椎茸栽培の改良とか、竹細工の生産程度の家内的手工業の域にとじこもっている間は、その力を十分に発揮することはむずかしい。 近代産業にたち遅れるか、追いつくかは、その成否にかかっている。 いまやこの県は、対岸の四国、中国との間にフェリーボートによる商品流通のルートがひらかれ、海岸地帯には大企業の誘致が進んで、近代化への道を歩みはじめた。 山間部の労働力をこれに吸収することがてきれば幸いだが、県全休としては、次第に京阪地方に労働力を奪われ過疎化が目だちはじめているのは暗い傾向である。 この県には、別府という世界有数の湧出量をもつ温泉がある。 ここが開けたのは明治以後で急に移住者が集中しててきた町であるため、とくに伝統的な気風はない。 別府温泉のほかにも、美しい別府湾、国東半島、阿蘇山、耶馬渓など、観光資源はたくさんある。 この方面の開発はまだまだ余地があり、将来性もあるが、観光産業の多くは都市資本に依存し、現地資本はそれに寄生するだけに終わる例が多い。 観光開発がこの県の明日を救うことになるかどうか、まだ懸念が残っている。 古い殻を破り、県内が結束して再開発計画を推進することが必要なのではないだろうか。 県南の竹田市は「荒城の月」の滝廉太郎の生地として知られ、山窩研究の三角寛、キャノンカメラの御手洗毅、小田急の安藤樽六、主婦の友の石川武美、作家の野上弥生子などが大分県の出身である。 |