宮城県




1、東北の先進地帯

 東北地方ても、仙台平野の開発は福島県を飛ぴ越えてもっとも古い歴史をもっている。

 弥生文化の追跡も多数発見され、紀元三世紀までに相当広範囲な開拓が行なわれていたことも証明された。

 そこに奈良時代の開拓が加わり、坂上田村麻呂の遠征、多賀城、陸奥国府、鎮守府と相次いて中央政府の出先機関が置かれた。

 芭蕉が『奥の細道』の中に「苔をうがちて文字かすかなり」と記している天平勝宝六年(754年)の多賀城碑(重の碑)も残っている。

 宮城県は古代から近畿地方の開拓者がつぎつぎにはいり込んだところで、いまでもその子孫が宮城県人の中心をなしている。

 慶長五年(1600年)に伊達政宗が仙台にはいり、以来270年、六十二万石の城下として栄えた。

 江戸幕府は伊達藩の勢力を警戒し、たえず隠密をはいり込ませたので、これに対応するために江戸の文化に近寄ろうとしたことも、封鎖性を減少させる大きな理由になっている。

 また江戸中期に仙台平野で米作が成功し、寒冷地産米が江戸に運ばれるようになったので、経済的にも余裕が生じ、東北地方としては開放的で積極的な性格をもつことがてきたのだろう。

 江戸との交通はほとんどが海路てある。

 福島県には小藩がたくさんあり、関所の通行がめんどうなこともあって、海から利根川をさかのぼり江戸と直接的な交流をもった。

 印旛沼開削事件などは、仙台米を江戸に運ぶための知恵がそもそもの原因になっている。

 江戸との直接交流は仙台の城下町の文化水準を、金沢とほぼ同じ高さに引きあげる結果を生んだ。

 年中行事の伝統が比較的少ないのは、古くから開けていたことの証拠てもある。

   “三十五反の帆をまきあげて 行くよ仙台 石巻”

 と「磯節」にうたわれたごとく、江戸時代には各地から人と物が集まってきて、この県の繁栄を支えたのてある。

 「石巻音頭」「松島甚句」「仙台節」「さんさしぐれ」「宮城音頭」などの歌詞が各地のものと交流しているのも、宮城県が生活的に孤立していない証拠てある。

 東京語の「とても」は元来江戸のことばてはなく、仙台弁が江戸にはいって東京語になった一例てある。

2、「伊達者」の起こりは?

 “さんさ時雨か 萱野の雨か

 音もせできて ぬれかかる”

 この名文句をほんとうに伊達政宗が作ったとすれば、この殿様はなかなか隅におけない男てある。

 政宗が藩をひきいて上洛したとき、みな別衿の着物を着ていたので都の人の興味をひいた。

 田舎者だから別衿だったのだが、それがひどく新鮮に映って「伊達者」の名をほしいままにし、伊達巻、伊達帯、伊違男などの新しい日本語をっくりあげた。

 中央に対する一種の文化的逆襲であり、それほど文化水準が高かったのである。

 しかし、今日でも都市と農漁村の間の文化落差は大きい。

 「病気、くるま湯、かさ鳴子」といわれてはやったはずの鳴子温泉も、芭蕉の句では、蚤しらみ馬の尿する枕もと、とあるようにさびれていた。

 この生活の落差が佐々木更三のような芯の強い抵抗者を生んだのだろう。

 ねばり強く頑固で伝統的東北型の彼は、むしろ盛岡の山中からあらわれるにふさわしいが、この人が宮城平野の農家から出ているのはふしぎなくらいてある。

 一方に頑固な佐々木更三がいることは、この地方の性格を端的に物語っている。

 東北独特のがんばりと気の長さは、登山家槇有恒、「河北新報」の一力次郎、重量挙げの三宅兄弟などに代表されるが、一部の軍人や学者を除いてはずばぬけた人物は出ていない。

 これは土地がよすぎること、東北独特の保守性、明治維新て朝敵視されたこと、この三つが重なって県民の前途を封鎖したせいだと思われる。

 この県は明治の廃藩置県では仙台県と名づけられている。

 しかし、明治五年(1872年)に仙台に近い宮城郡の名をとって官城県と改称された。

 これは朝敵となった仙台藩の字を避けたからであり、三百年の伊達治政の勢力を否定するためである。

 しかし、慶長六年(1601年)に伊達政宗が仙台城を築いて以来の影響力がいまだに尾をひいており、その意味ては“仙台県”にふさわしい地域てある。

 県民の体型はまちまちだが、案外近畿型が多いので、整った顔の人が多い。

 ただ、丸顔で毛深く、色白で小身というこの地方特有の人が混っているが、これには東・東北のいわゆる蝦夷の血が残っているらしい。

 宮城県は東・東北型の南端であると同時に北関東型との接触点であり、さらに海上から近畿型がはいっている。

 そのために三地方の良悪両面を兼ねそなえている。

 性格は全体として内向型て弱気であり、分裂質の傾向が強く、理想家肌で小心、利己的な人も少なくない。

 ねばり強く努力型の面もあるが、豪放を気取るスタイリストに終わる危険もある。

 模倣性が強く、群集心理も強いが、かといって、徒党を組んだり味方をつくったりすることは不得手である。

 これも宮城県人の努力がなかなか出世につながらない理由の一つといえるだろう。

 しかし、東北地方ではいちばん社交的で、明るく、ゆったりしている。