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1、播磨屋敷の由来 “土佐の高知の播磨屋橋で坊さん簪(かんざし)買うを見た” ペギー葉山の「南国土佐をあとにして」にとり入れられてから、いよいよ有名になった「よさこい節」の一節である。 坊さんは竹林寺の純信、娘は鋳掛屋のお馬ということなどはどうてもいいが、なぜ高知市のまんなかに“播磨”という他国の名の橋があるかは問題である。 有名な坂本龍馬の家も才谷屋といった。 これは近江国長岡郡才谷に祖先が住んでおり、龍馬の父八平が士佐藩の家老福岡宮内の世話で新規郷士となり、坂本を名乗ったもので、もとは近江国出身であったからだ。 播磨屋は播磨国飾磨の出身で、紀伊国出身の櫃屋との間の堀にかけた私橋が播磨屋橋と呼ばれ、のちに公橋になったのである。 このほか、江戸時代にこの国で栄えた豪商はほとんど他国出身者であった。 播磨屋橋一つをとりあげても、この国の商業は他国出身者によって支配され、商品は彼らの手によって国内に流通されたことがわかる。 大阪にはこの国の商品を陸揚げする「土佐堀」もあった。 この商人的性格は「土佐いごっそう」と呼ばれる非妥協的な土佐人の気風とは相反するものだが、他国者によってこの県にもたらされ土佐人の中に定着した。 のちに三菱の岩崎が出たり、中江兆民が商売に手を出したりする理由は、けっしてふしぎではないのである。 2、強情で妥協性欠く 土佐国は、むかし南海道に属していた。 それは都から紀州を通り、土佐を通って南九州につながる地域である。 これは、この県の人々の性格にはっきり南海型があらわれていることで証明される。 県内は山がちで、小渓谷が多く、交通はきわめて不便である。 幸い気温が高く、降雨に恵まれ、自然産業は山海ともに発達したが、それらの産物はとにかく他地方へ輸送しなければ商品価値をもたない。 それが他国資本が流入する原因である。 それでいて、県内の小セクショナリズムが「いごっそう」をつくる素地となっていった。 頑固で強情、妥協性に欠ける勝気がこの県の特徴だが、これは地形と風土と封鎖性に負うところが多い。 戦国時代の高知県は零紬化した何百という小大名が点在していた。 これが郷土の開発と資本の蓄積を非常に遅らせる原因になった。 そこに長曾我部が侵入し、城に逃げ込んで戦いの準備をはじめる小大名たちには目もくれず、その大名たちの刈り入れどきの稲を取って退く。 これを三年やられると土着の勢力はすっかり参ってしまった。 長曾我部は鎌で土佐を統一したといわれるのはそのためである。 この国には善人が多かったが、渓谷、盆地、村落が最終単位でそれ以上の結束がなく、そのながで自給生産をしなけれぱならなかったので、非常に損をした。 やがて豊臣秀吉に認められて山内藩がはいり、二百六十年間の治政がはじまった。 昔の戦国大名の名残りは郷士になったが、士分とは名ばかりの百姓で、坂本家もその一つである。 龍馬の抵抗意識はこうした環境の中で育てられたのだろう。 しかし、高知県民にもともと革命家的要素があるのではない。 龍馬の場合は「触発現象」で、県民性にそれがないからかえって急激に革命児に変わるのである。 触発された龍馬のような人物が京都や江戸へ行き、薩長の反幕思想に挑発されてやがて土佐藩全体が勤皇藩になっていく。 山内容堂は歴史家によっては評価する人もいるが、じつは優柔不断なロボットであったから、薩長土肥と並ぴ称されながら、明治政府になっても土佐出身者は優遇されなかった。 龍馬は、精神主義者の多い土佐には珍しい唯物論者で、商売がうまく、経済人としては渋沢栄一に匹敵する人物である。 もし殺されずに明治時代を生き抜いていたら、岩崎のかわりに坂本家が日本一の財閥になっていたのではないかと私は思っている。 龍馬についてのエピソードや人間像にはフィクションが多く、すべてを信じることはてきない。 彼をめぐる女性などはすべて嘘で、正夫人はたしかにいたが、あとの女性はみなつくられたものである。 土佐の人は洒が強い。 3、酒豪とギャンブル好き 酒を飲んて議論をするのが大好きだが、語りあうことによって意見をまとめるというのではなく、議論は単なる酒の肴である場合が多い。 これは南海型であるうえに民度が低く、高い自己開放の手段を受け付けなかったからである。 また土佐人は虚勢を張り、スタイリストの弱点がある。 酒やギャンプルのような不合理性を好むのはそのためだろう。 土佐にはほんとうに豪放な人も少なくないのだが、豪放を男の第一案件のようにいうのは、じつは案外小心な自分を飾ろうとする人が多いからである。 土佐人を豪放だと思ってかかるとあてがはずれる。 むしろ虚栄心が強いタイプと考えたほうがいい。 この県の人には、以上のような欠点も少なくないが、明るくカラッとしていて、思い切りがいい。 全国的に見ると誠実で信頼できるほうに属する。 そして、なによりも実行力の強いことが美点てある。 そのため政治家、実業家、学者として独創的な道を歩み、特色ある経歴を残す人が多い。 もし高知県が、鹿児島や長野のように早く教育県に徹していたら、あるいはもっと多くの人材を世に出したことだろう。 明治維新の栄光と、当時の先輩の余恵がようやく薄れようとするとき、このことはとくに痛感される。 ここでもう一度はじめの「よさこい節」を考えてみよう。 「南国土佐をあとにして」に引かれている「土佐の高知…」の一節は、「土佐節」というこの土地の古い民謡で、安政五年ごろに流行した。 その後、明治維新前後にまず流行し、ついで明治二十四、五年、そして戦後の大流行に至るまで何回かの「土佐節」「新士佐節」のブームがくり返されている。 ふしぎなことに、これが流行する世相は、いつも暗いものが鬱積しており、それを打ち破るように「土佐の高知…」が唄われてきた。 南国土佐の明るさに対する日本人のつきぬあこがれかもしれない。 |