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1、“海の銀座”に面して “金昆羅船々追手に帆かけて シュラシュッシュシュ まわれば四国は讃州なかのこおり 象頭山金昆羅大権現 も一度まわって……… 讃岐国といえば、まず思いうかぶのが金昆羅さまである。 いまでは全国で歌われる「金昆羅船船」は、元来は大阪からの全昆羅参りの船の姿を歌ったもので、今日でも象頭山の中腹にある琴平(金刀比羅)神社には、日本一高い右段をのぼって来る参詣人が朝タ絶えることがない。 瀬戸内海の海面には、いまでも「金昆羅大権現」と書いた旗を立てた樽が浮いている。 これは「流し樽」といって、中には舟乗りがこの神社に奉納する銭がはいっている。 これを捨った船は、だれかれの差別なく、ちやんと神社に届けることになっている。 せちがらい世の中になっても、こうした信仰だけは生きつづけているのである。 香川県は瀬戸内海という“海の銀座”に面し、四国への物資輸入の門戸であると同時に、山腸道と四国への連絡路であり、また金昆羅宮を中心に参詣者を迎えてにぎわってきたところである。 ここはさらに弘法大師の出身地で、八十八力所の巡礼でも知られている。 県全体がそのために門前都市的であり、春ともなれば観光バスを連ねて巡礼の団体がやってくる。 そのうえ、粟林公園、屋島、「新平家物語」の“名所めぐり”など、とにかく香川県の売り物は風光と信仰と歴史の三つにしぼられるのである。 いまや国府台のドライブウエー、ゴルフ場と、近代的な観光開発が進み、他国者の財布をあてにする一大観光県になった。 これは結局のところ香川県に特筆すべき物産がなかったことから生まれた県民の知恵なのだろう。 色とりどりの船はひきもきらずに県の沖を通って行く。 しかし、それは通り過ぎるだけで、この県の生産や生活には何の関係もない。 字野−高松間の国鉄字高連絡船も、新装の船体を何回も往復させ、この県に両国の玄関としての繁盛をもたらすかのように見えるが、それとても阪神と四国の間に人と物の通過地を提供するだけで、あまりこの県に落ちるものはない。 それを観光によってプラスに転化しようというのがこの県の努力目標だったわけてある。 しかし、昔丸亀がこの県の代表港であったときには、沖の塩飽諸島の水主(水夫)は北前船をあやつったし、秀吉の朝鮮の役には物資輸送の大任を果たした。 中世では塩飽水軍は海外貿易の担い手であり、その崩れたものが倭寇になったりしたが、いまではみなただの語り草になってしまった。 この県民の気風は、こうした歴史性に、降雨量が非常に少ないという自然条件がプラスされてできあがった。 南の四国山脈に貿易風をさえぎられるために雨はまったく少ない。 そこて満濃池をはじめ、日本一数多い溜池をつくって、農業を行なわなければならなかった。 この池をつくった労力を総計するとたいへんなものになる。 そういう点では勤勉な性格なのだろう。 全体的に明るく、近代的で、体型は岡山に相通じるが、方言の系統はちがう。 つまり瀬戸内海の東西はたしかに“海の銀座”だが、南北は文化が隔絶され、吉備国の文化は必ずしも讃岐国の文化に結びついていない。 昔から日本で製塩が行なわれている十カ国の代表的存在であったが、いまでも製塩業がさかんな土地である。 2、「理にさとく、敏才」 讃岐の人は「へらこい」といわれる。 へらこいとは、がめつく、けちということである。 大阪の生活圏にはいっているから、がめつさは讃岐にがぎったことではないが、ここでは非常に商人的性格を育てている。 しかし、そのわりには大成功する者が少ない。 「理にさとく、敏才にして、よく時の人気にかなう」というのは、この県の代表者とみなされている平賀源内への批評だが、この性格はたしかに県民の一部に生きつづけている。 源内はのちになって精神状態が分裂し、とうとう牢死するハメに陥るが、香川県の代表的性格というよりは触発的な人物である。 非常に身分の低い足軽の子に生まれたという劣等感と、近代社会の大きな激流を敏感にキャッチした先見性とが混りあって、彼の特異な性格をっくりあげている。 源内ははじめ薬園の足軽をつとめ、本草学という薬草研究に手をつけたことから蘭学に目を向け、長崎に留学を命じられて、怒濤のように押し寄せる新しい文物を一気に吸収して独特の才能をあらわすのである。 しかし、彼はオランダ語を知らない。 蘭学者というのは誤解で、日本人を通じて得たオランダの知識てたちまち彼一流の学問をつくってしまうのである。 エレキテルの改良などはそのよい例だろう。 彼は自分の発見を幕府に採用させようとして田沼意次・意知親子に近づき、政治権力を利用してうまく立ち廻るが、発電機をまわして人々に手をつながせ、端の人の先から放電させて驚かせる程度では実用にならないので採用されない。 秩父の石綿を使って火浣布をつくるが、これもエレキテルのような手品の一種と思われて日の目を見なかった。 源内は暇をもてあまして「神霊矢口の渡し」のような浄瑠璃をつくったり、不満を『風流志道軒伝』という文学作品に託して幕府の政治や仏教を攻撃したり、非常な多芸多才であったが、結局はそれが彼自身を破滅させている。 あるとき、自分の発見をしまってある手文庫の中を弟子がのぞいた。 彼は怒ってその男を殴りっけとうとう死に至らしめたのて、殺人の嫌疑で伝馬町の牢に入れられ、そこて破傷風菌におかされてしまう。 彼はその恐ろしきを知っているが、牢の医者は何も知らないので手当てをしてもらえず、自分の死期を知りながらむざむざ死んで行くのである。 源内の欠点はあれだけの才能をもちながら基礎的な勉強をしなかったことだろう。 電気を扱っても、理論を知らなかったから、結局は手品で終わってしまった。 3、明るい躁鬱質 「理にさとく」という性格は、県内から発明工夫家を多く出したが、源内の性格がすべてここの県民性に合致するものではない。 県の全体を包んでいるのは、やはり内海型の明るい躁欝質である。 表情にしても暗い人は少なく、みな努力家でマジメである。 とくに女性は進歩的でよく働き、教育水準も高い。 長野、鹿児島と並んて、教育のさかんなところはみな生産が低い。 あるいは学問を身につけることが、明治以後の立身法の一つであったのかもしれない。 この県の生徒は学力テストの成績がよく、なかでも数学が日本一であることは有名だ。 そのくせ妙な理屈をこねまわす人は少なく、門前町的性格のよい面があらわれて、温和で社交的である。 塩田をつくった久米栄左衛間もこの県が生んだ発明家である。 彼は毎朝早く丘にのぼって、東側の村が早起きか、西側の村が早起きかを調ベ、たまたま坂出のほうがはやかったので、これは勤勉にちがいないとそこに塩田をひらいたという逸話が残っている。 彼はまた望遠鏡を改良して、せいぜい四十センチぐらいが限度だったのを1メートル以上にして可視距難をのばし、また空気銃を発明したり、世界最初の万年筆を考案した。 この塩田の塩と、源内の砂糖と、在来の米の三つを「讃岐三白」と呼び、その生産に励んだので、「讃岐男に阿波女」が理想的な組み合わせといわれた。 ただ、欠点としては、豪放な開放性が少ないのと、結束力が弱く県民同士で競争するので、大きな成功者はあらわれないことである。 またあまりに常識的すぎて平凡な人が多い。 親分肌の菊池寛、“根性”の大松博文などは「触発現象」によるもので、大平正芳の茫洋たる風格とともに、この県ではまれに見る自己解放型である。 |