|
|
|
1、結束ほこる郷党意識 “長州殿様 力が強い 三十六万石 棒にふる 梅と香りて 桜と散りゃん わたしゃいやだよ 柳武士” 「ョイショコ節」の勇ましい文句は、豪放を装い、体裁を重んじる山口県人にはいかにも好かれそうである。 三十六万石を捧にぷるというのは、幕末に朝敵となって長門戦争を起こされ、毛利藩三十六万石を取り上げられたときのことである。 たしかにスタイリストは多いのだが、ほんとうの山口の人は案外計算高く、がめつく、ただ豪放だけというものではない。 ここは内海に面する周防の国と、主として日本海に南する長門国から成り、山多く物産少なく、古くはけっして豊かなところではなかった。 冬の季節風は寒風と雪をもたらして日本海側は荒れた。 しかし、内海側は温暖で、農産や漁業に恵まれ、かつ水陸の交通が便利だったので、はやくからひらけた。 この県は、位置的な理由で朝鮮と関係深く、毛利氏以前にここを支配していた大内氏は、推古天皇のとき百済の琳聖皇子がやってきて帰化した家柄の出であるという。 この県に朝鮮の血が強いことは、最近県内の弥生文化遺跡から出た人骨の研究でも立証された。 今日でも、この県には内海型の人と、朝鮮型の人が混っている。 大内氏ば戦国時代に、朝鮮や明と交易し、山口は西日本第一の交易場になったこともある。 山ロ県人ほど郷党意識の強い人々は少ない。 また好ききらいもはっきりしすぎるほどはっきりしている。 それと同時に、他国人からの批評も好悪の差が非常に著しい。 山口県人の性格を語る場合、なんといっても最大の要素は明治維新だろう。 維新における防長出身者の功労は、もちろん大きく評価すべきである。 しかし、見方によってはつもりにつもった貧乏外様藩の幕藩体制ヘの不満が、社会不安に乗じていっきょに爆発したともみられるのである。 他の雄藩に対しても、朝廷、幕府に対しても、結束自衛しなけれぱならなかった彼らの宿命は、その後も長いこと他郷での結束と相互扶助の習慣を定着させた。 「肪長倶楽部」は鹿児島の「三州倶楽部」と並んで、単なる親睦機関の域を越えて、会員にさまざまの結びつきを提供するといわれている。 それが他府県の人からきらわれるもとになっている。 嫉妬の一種といってしまえばそれまてだが、結束力の強さは排他的になって、評判はよくない。 江戸っ子は“将軍さまのお膝元”という意識があるせいか、明治維新で成功した新勢力を軽蔑するが、なかでも政治権力を握った長州人をきらった。 一口に薩長というが、薩摩の人にはじょうずにたちまわって権力の座につく才能が長州人よりは少なかったようである。 2、組織の力をフルに利用 中央政界における“長州閥”は、山県有朋の総理就任にはじまる。 彼は偉人の一人ではあるが、やり方には適当なごまがしや狡猾さがあってきれいとはいえない。 しかし、“長州閥”は力をあわせてそれをかばい、みずから美点と認めているのである。 それ以来、長期政権記録を樹立した前総理・佐藤栄作まで、“長州閥”の歴史は長い。 もしこの結束がなかったら、佐藤栄作は運輸省の局長どまりであったかもしれないし、収賄事件のとき大養法務大臣の指揮権発動もなくて政界を去っていたかもしれない。 よきにつけ悪しきにつけ、これが山口県人の特徴だろう。 こうして山口県人から多くの官吏、軍人、政治家があらわれた。 それらは組織の中で、組織を利用し、親分子分関係の結びつきを背景として出世する世界である。 単身ほうり出されて独力で道をひらく必要のある商人、文士、芸術家などの世界とはだいぷちがっている。 そのためか、多くの有名人を出しながら、自由業や実業家として成功した人が案外少ない。 これも山口県の特色である。 また、非常に理想主義的で、空論と形式主義の好きな人が多い。 こうした非現実性は、組織を離れては通用しない。 これも彼らががっちり組織を固め、その中に一味を配置しておくことになったものだろう。 徳川の勢力が衰えるまではここから一人の英雄豪傑も出なかったし、出る余地を与えられなかったことも忘れてはならない。 大きな戦いはなかったが、維新の前に毛利家が九州小倉の小笠原家といざこざを起こして攻め込み、これがのちに炭鉱の利権を手中にする原因になった。 しかも明治政府で成功したから、毛利家は北九州工業地帯の大きな背景になった。 しかし、それは毛利一家のことで、萩の士族屋敷などは、禄高に比べてもっとも貧弱な建物である。 松下村塾が掘立小屋程度なのも貧困のようすをよくあらわしている。 吉田松陰がとくに傑出した人物てあることはいうをまたないが、彼はてんかん質の一種であると同時に、山口県人の特色である“徒党意識”を強くもっていた。 松下村塾の弟子たちにもそれが徹底して、それぞれの立場で維新のために働きながら結束を忘れず、海外留学をしても松下村塾の一員である誇りをもちつづけた。 結束することが彼らの美点であり、結束しなければ生きていられない人たちなのである。 この県には、日の悪い人が多いという批判をよく耳にする。 しかし、ロの悪いのは北関東にも九州にもあって、なにもここだけの現象ではない。 それなのにこんな評判が立つのは、この県の人の悪口はカラッとせず、やや陰湿で、偽悪的な欠点があるせいだろう。 それは口の悪さの中に、自己顕示や自己主張がはいっているからだと思われる。 「つきあえべつきあうほど味がでる」というのは山口県人が自分たちを語ることばだが、たしかに同じ山口県同士の場合はそのとおりにちがいない。 しかし、他国者がなかなか溶けこみにくい性格であるのもたしかである。 同じ山口県でも日本海に面するほうは、より素朴で堅実、古武士的なおもむきがある。 内海側のほうはがめつく、社交的で明るい。 それだけ日本海側は頑固、内海側はやや軽い。 体型は全体に細身で青黒い骨張った朝鮮の影響の多い人と、楕円顔、色浅黒く、筋肉質の内海型の人が混っている。 下関は古く西回航路の馬関の地、堺以西最大の港街で、上方との交通がさかんで人の移住も多かった。 そのため、近畿型の体型が一部に定着してこの中から美人を出している。 |