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1、さかんな海上文通の影響 この県の大部分は備後国、西が安芸国で、戦国時代は毛利氏、関ケ原の役後は 福島氏が領し、ご元和五年(1619)以後浅野氏がこれに代わり、福山を中心とす る一部に水野氏、のちに阿部氏が封ぜられて明治維新に至ったところであ。 福山の水野家は、鞆の遊女に毎年百俵ずつの扶持米を与えて保護したという。 娼婦に大名がサラリーを出すとは珍妙な話だが、これも領内繁栄政策の一つで あったらしい。 瀬戸内海とは、それほど船の往来がさかんで、遊廊を置けば船乗りたちがどっ と集まり、大いに繁栄を計ることができたのである。 「鞆節」には、その遊女がたくさん歌われている。 “酒は酒屋によい茶は茶屋に 女郎は備後の鞆の津に” “鞆の沖通りゃ二階から招く しかも鹿の子の振袖が” “鞆の女郎衆は牛蒡の煮付 色は黒いが味がよい” また、広島の古い歌謡に、 “渦がまいます広島の沖に 渦じやごいせん笑窪てごいす お前とわたしが仲じやもの” というのがあって、宮島あたりも遊里が栄えていたことを示している。 内海の島々にも遊女が多く、木之江のオチョロ(お女郎)は船上売春で最近ま で有名てあった。 とにかく、藤原純友や平家の水軍をはじめ、南洋やインドに進出した中世の海 賊や、運送業者として全国 に出向いたその子孫たちなど、海上交通とは切っても切れないところである。 これが広島県民に開放的な明るさや、進取の気風をもたせるもとになっている らしい。 アメリカ移民では日本一の県というのもそれを裏書きしている。 平清盛が安芸守すなわち広島県の地方長官に任ぜられてから、平家一門はこの 地の村上水軍に非常な期待を抱くようになった。 福原遷都も、清盛の目がたえずここに向けられていたことを物語っている。 平家は海戦に慣れていない源氏を海へひきずり出して勝利を手中にしようと考 えた。 しかし、不幸なことに熊野灘の熊野海軍が義経を通じて源氏に味方したので、 形勢は逆転した。 静かな内海しか知らない村上水軍と、紀伊の荒波て鍛えられた熊野海軍では操 船技術に大きな差があった。 やがて村上水軍も源氏についたので、海戦は勝負にならず、義経の八艘飛びと いう伝説は別としても、奇襲と海軍力のちがいに、平家は大敗を喫したのであ る。 源平の合戦では敗れたが、水軍の伝統が生きつづけて、尾道、福山の海岸浴い から北の備後地方には、海外に出て成功した人が非常に多い。 2、要領よく、積極的 備後地方は北にのびて出雲に接するが、この山地と海岸部とは性格を異にし、 海岸部はむしろ安芸に似ている。 江戸時代にはいると、海岸部から綿、鑞、いりこ、紙、煮干を出し、山地から 木材、木炭、鉄を出してかなりの収入を得たが、商業がきかんになるにつれて町 人の経済力は大いに高まった。 その中から、頼山陽、春水、杏坪、香川南浜など、儒者、町医者、心学者にす ぐれた人物が生まれた。 これは古くから文教政策に力を入れた結果で、帰化人の頼家を養って儒学を広 め、その親戚にあたる菅家は朱子学を教えた。 頼家の人々はてんかん質の傾向がある。 山陽はその代表で「触発現象」によって強力な文化運動を起こしたのである。 これが吉田松陰その他に刺激を与えて、やがては明治維新に結びつくのであ る。 頼家は帰化人といっても古代以来のものではなく、江戸初期に中国からはいっ て来た人である。 浅野家はこうした帰化人が好きで、新しい文化を吸収するために多くの帰化人 を抱えた。 この県の人には商業的性格が定着している。 したがって商業方面だけでなく、政治家、学者、作家などいずれの分野でも要 領がいいところがある。 円満さを買われてとりまとめ役になり、他人から喜ばれるが、その実なかなか 巧妙に動いて絶対に損はしない。 要するにりこうなのである。 しかし、人はあまりりこうだと、少しの油断から大きな失敗をひき起こした り、他人から嫉妬きれるというマィナスがある。 大きな成功をおさめる人が案外少ないのは、美点が欠点に変わるせいだろう か。 全体としては明るく淡白で、人あたりが柔かく、積極的で長所の多い性格てあ る。 少々自己主張が強かったり、経済観念が発達しすぎているくらいは欠点とはい えないだろう。 また広島の人は、自分たちは中国・四国地方の中心てあるという自負をもって いる。 江戸や上方に負けてはならないという気風も強い。 それがはやくから広島高等師範(いまの広島大学)をつくり、プロ野球のチー ムを置き、きまざまなお国自慢を育てきた。 行きすぎては困るが、ほどほどに中心意識をもつのは、積極性のあらわれだろ う。 城下町であり、かつ海陸物資の集散によっで商業都市としても栄えたことに原 因があると思われる。 日清戦争(1894〜95)のとき、広島に大本営が設けられたが、これはとくに意 味はない。 下関に置くべきだが、それでは清国の大砲の射程距離にはいってしまうためで ある。 戦後は“原爆のヒロシマ”として世界に名を知られるようになったが、私見を いえば、原爆慰霊祭もひそかに広島の人が中心になってやっているところに価値 があるので、他国者が犠牲者を売りものにするようなことがあってはよくないと 思われる。 3、自由闊達な島部の人 同じ広島県でも、山地の人には質実、素朴、明るいなかに一本芯の通った犯し がたい性格がある。 このなかには理想主義の人があり、道徳家も出る。 安芸には古くから「安芸門徒」と呼ばれる浄土真宗の信者が多かった。 浄土真宗が定着したところは、民衆がしいたげられてきた地域が多い。 これに対し、この県に多い内海の島興部には、気宇広大て積極的、自由潤達で 独立心の強い人があらわれた。 島興そのものは内海特有の前近代的漁業で大した収穫は期待てきず、土地はや せて最近まで物産は少なかったので、都市や海外に出かけ大成功をおさめる場合 がある。 広島県民も、山間と平野と島ではそれぞれ体型を多少異にしている。 山間には筋骨質でやせ型、出雲の影響の強い顴骨の高い人が多い。 平野部は内海型の代表で、筋骨質、楕円顔、中肉中背の人が見られる。 島は内海型を主にしながら、より南方的な、色黒く、足の長い、やせ型の人が 多い。 美人は内海型の人に多く見られるが、山地の何代も隔絶した村落には、ときお りあざやかな整った人が出る。 遣伝因子の間係だろうか。 英文学者福原麟太郎、作家井伏鱒二はともに本県生まれで、福山藩校・誠之館 の後身福山中学の卒業生である。 自民党きっての秀才といわれる宮沢喜一、将棋の升田幸三、財界では桜田武、 永野重雄などが広島県出身である。 |