和歌山県




1、景勝と信仰の地

 古く「木ノ国」といったのを、地名を二字に書くという奈良時代の法令に従って「紀伊国」になった。

 要するに山国であり、木材の産地としてまず知られたのである。

 景勝の地として有名な和歌山も、もとは「若山」だが、片男浪の歌の縁で和歌山と三字をあてるようになった。

 西国三十三カ所霊場は、県南の那智寺を一番として、紀三井寺、粉河寺と北にたどる道順になっている。

 伊勢参宮のあと、南紀、紀北、大和、京都へと巡礼が歩いた。

 また熊野詣は、中辺路なら大阪や奈良県から田辺に出て山中にはいり、熊野本宮へ行く。

 海岸をさらに南下して那智へ行くのが浜辺路、いずれも苦しい道程だが、蟻の熊野詣といわれて、古くからアリの行列のように並んで熊野三杜に参詣する風習があった。

 安珍のあとを清姫が追いかけて行ったのは中辺路で観光をかねた参拝者集団の大旅行は、生産の少ない山国に大きな利益をもたらした。

 さらに紀北の高野山金剛峰寺、僧兵で有名な根来寺、女の信仰で知られる淡島明神があって旅行者が多い。

 これが北部の人に都市的な依存性を与えた。

 また大阪への出稼ぎや移住も多かったので、大阪的なガメツサや打算性も教えられたようである。

 しかし、全体を通じて見れば明るい好人物が多く、作家佐藤春夫の陰湿さはごく珍しいタィプである。

 これは彼の家族関係と上京してからの「触発現象」によるものだろう。

 勝浦の駅前には、彼の「秋刀魚の歌」の碑があるが、新婚旅行のカップルが、この離婚の歌の前で記念撮影をしているのは寄妙な光景である。

2、外に向かって発展

 牟婁郡といわれる南紀(熊野地方)は、山が海にせまりり、農業よりも山稼ぎ、漁業、船による運送業で生きてきたところてある。

 木材や木炭を大阪や江戸に運ぴ、カツオ、クジラ漁業で勇名をはせ、のちには運送業もさかんになった。

 古く、熊野信仰を守護することを名目に、特殊な発展をとげた熊野水軍(海賊)の伝統が流れている。

 この伝統の中から紀伊国屋文左衛門の伝説的な冒険が生まれる。

 紀文はミカンを船に満載し、荒海を越えて産をなしたといわれるが、これは一種の伝説で、初代紀文は木材業者である。

 木材を運んだ船の帆柱が残っている。

 江戸時代における建設ブームのとき、権力者と結んで大量の木材を提供したことにより一代で資産をつくりあげたのだろう。

 紀文が大きくなったのは、賄路によって寛永寺中堂の入札に成功したからだといわれる。

 ミカン、醤油、漆器などの発達は、この県の湿度と温度に負うところが多い。

 野田の醤油も、龍野や小豆島のそれも、みな和歌山県の湯浅から出ているし、漆器の黒江塗も早くから移出産業になった。

 これらの物産は近世の都市発達の中で流通商品化し、この県の経済を大きく救った。

 明治以後、アメリカやブラジルヘの移民も多かった。

 梅岸地方は、最近温泉が開けるまではへんぴなところで、郷土の貧国の上に紀文のような勇壮な積極性が重なったのが、移民をふやし成功者を出した原因だろう。

 故国に錦を飾った人たちが、アメリカ村をはじめ何十という村を南部につくっている。

 遠洋漁業の乗組員を多く出しているのも同じ理由によるものである。

3、大阪化が進む紀北

 南紀の性格は、いわゆる“黒潮型”で、陽性、正直、カラッとして感情表現がはっきりしている。

 非常に一途なところがあって、大成功者も少なくない。

 白浜には南方熊楠の記念舘があるが、彼は教育熱心な母親に育てられて十四歳のとき『和漢三才図会』を暗記したという。

 偉大な学者で、その大脳の表面積の広さは夏目漱石の次ぐらいではないだろうか。

 これが「触発現象」ではなく、南紀の地域性としてあらわれていることに注目すべきである。

 しかし、南紀の人にはいちかばちかの投機を好む欠点があり、十分に計画されたものならば結構だが、やや知的配慮に欠けるところがある。

 紀北には紀ノ用が流れている。

 和歌山平野をうるおす、この地方の母なる川である。

 本県出身の作家有吉佐和子の小説『紀ノ川』は、非常によくこのあたりの人の性格をあらわしている。

 一見忍従の中で日々をすごしながら、『紀ノ川』の女主人公はすべての人間間係を自分のぺースの中に巻きこんで行く。

 このタィプの女性は、大阪の商家の主婦と共通のものをもっている。

 大阪型の性格がここまてはいり込んていることがわかっておもしろい。

 オランダ外科を学び、全身麻酔による外科手術でアメリカ医学を四十年も追い越した花岡青州もこの浴岸に住んでいた。

 この妻の生涯をやはり有吉佐和子がその作品に描いているが、こんな性格の女性は和歌山県にはあまり多くない。

 紀北の大仮化はいまや人間関係だけではなく、産業開発においてもどんどん進んている。

 海岸には工場群が集結し、コンビナートが出現して、すっかり近代化の様相を深めた。

 南紀は鉄道と道路の完成で、新官、那智、勝浦、串本と観光施設に都市資本が投下され、面目を一新しようとしている。

 なかには現地の山林地主が脱皮して、大温泉ホテルの経営に転じた珍しい例もある。

 木炭はだめ、木材も不安定となれば、それも当然だ考う。

 和歌山県は戦後の地震を境に大きく変化しつつあるといえよう。

 県民性の特徴に、大阪商人と京都の文化人にあこがれ、北へ向かって京阪神を目ざす“商業型”と、理想主義的で独創性や反骨に富む“海外志向型”が存在することである。

 前者の代表的な存在は海草郡和佐村(いまは和歌山市)で生まれた松下幸之助、後者の代表は湯銭の憐村に生まれ、銚子に出て醤油作りに成功した初代浜口儀平衛だろう。

 日本画の巨匠川端龍子は和歌山市の呉服屋に生まれた反骨家、洋画の硲伊之助は海草郡下津町、元首相の片山哲は田辺市の出身である。