岩手県




1、閉鎖的で自己本位

 岩手といえば、昔から馬の県として有名である。

 いまも六月十五日に行なわれている「チャグチャグ馬」の素朴な行事は、鈴や布で飾られた馬が馬市に向かう姿をあらわしたものである。

 「南部馬方節」に、

 “一夜五両でも馬方いやだョ

 七日七夜の露を踏むよ”

 という一節がある。

 遠方の村々から馬市に出かけていく馬方は、好きになってもなかなか逢えない。一晩五両(約十五万円)の大金を積まれても相手にするのはいやだという遊里の女心を歌っている。

 天明飢饉の惨状を書いた菅江真澄の『遊覧記』には、あらゆるものを食べつくし、人の屍肉を喰い、最後に馬を殺して食べる光景が描かれているが、この県の人にとっては肉親を殺すにも近い追いつめられた行為であったにちがいない。

 馬は唯一の物資運搬の手段であり、同時に現金収入の道でもあった。

 これは山地が多く、冷害や水害が多く、食糧などの生産性が非常に低かった時代が長くつづいたことを意味している。

 きびしい自然に耐え、窮乏と戦うことは人々に内向性を性格づけ、また忍耐力を育てたが、中世以来の小勢力の対立や、近世における小藩の分立は、この広大な県内に閉鎖的で自己本位の性格も植えつけてしまったようである。

 これが一方では、分裂質的な矛盾に満ちた性格の一面をつくる。

 石川啄木の分裂質については、すでに各方面で述べられているから改めて触れないとしも、その誇大妄想的な利己性、不満、独善の底に劣等感が流れていることを指摘したい。

2、根強い中央憧憬

 岩手県は元来、安倍氏や清原氏の根拠地て、租税として中央政府に馬を供出していた地方であった。

 冷害で牧草が枯れ、馬が減少したのに、かえって税の圧力が強まったので、民衆を救うために11世紀の後半に前九年、後三年の役を戦ったが源氏に破れ、そのあとは源氏の馬の補給地となった。

 武家社会の必需品である馬と鉄をもっているために、各地の武将に目をっけられ、戦国時代にはいると小さな武将がたくさん出てくる。

 そこに甲斐源氏の南部氏が移住してきて諸勢力をおさえ、岩手県の中心勢力となった。

 県民性の中にスタイリストや擬豪放性があらわれるのは、これが原因であろう。

 南部氏の一派が中央勢力と結ぶのは、豊臣秀吉の天下掌握以後てある。

 その時期にはいっても、鎌倉峙代以来の地方劣等感と中央憧憬は根強く、ときにこれが反抗的に、あるいは進歩的的に表現されることがあった。

 江戸時代の小し前、17世紀から鉄の需要がふえ、砂鉄の量に限界がきたのて、東北地方の岩鉄と製鉄用原料の木炭が重要視されるようになった。

 南部藩の大島高任は1854年、釜石に洋式高炉を造って鉄の精煉を行なったが、これも保守的な一般性の中にあらわれたきわめて進歩的な一面である。

 詩人宮沢腎治も、その理想主義的なあらわれといってよいだろう。

 原敬、斉藤実、米内光政、金田一京助、山口青邨など、この県出身の著名な人々の性格は、非常に複雑で一貫性や共通点が少ない。

 南部藩は明治維新て朝敵になったために政治家への道がとざされていたが、自由民権運動を機にこれを中央に出る手がかりとした。

 それが原敬の政党内閣を生む遠因てある。

 陸海軍の将軍が多いのは、貧困の中で無償で教育を受けられる道を選ばなければならなかったからだろう。

 同じような条件下にありながら、福島県の会津は民度が高く、経済的な余裕があったため学資を払って教育を受けたのて銀行家や実業家が多く出る結果になった。

 岩手県人の美点は、篤実、忍従、努力などだが、明るい人が少ないのが久点である。

 地方劣等感のような理由のない偏見はさっさと捨てて、自己開放を行ない、社会性を高めれば、この県の人材開発は大いに見るべきものがあるだろう。

3、県北と県南にある差異

 北部には江戸時代まで蝦夷村が残っていたが、県民にアイヌ人との混血はほとんど見られず、仙台地方からはいった北関東型の骨張った人と、西・東北からはいった畿内型の丸顔の人が混っている。

 北上川が太平洋の市に向かって口をあけ、西日本から潮流に乗って東北へ行く人が上陸しやすい地形であることが、青森、秋田両県と人口構成の上に差異をもたらした。

 岩手県がいかにも文化果つるところのように見えながら、案外近代的な容貌や体質をもつ人が多いのは、立地条件とそれによって起こった昔の交通と産業の結果だろう。

 県北と県南ては、民度生活様式、体型などにやや違いが認められる。

 県北はいわゆる南部的で、実地農法と寒地生産に支えられている。

 早稲を短時間に収穫するために集約的な過重労働をしなければならず、あとは生産手段がないので炭焼きという低賃銀労働に耐えなければならなかった。

 しかも絶えず冷害に襲われるので、人々の気風は封鎖的であり、自己開放の機会にめぐまれず、暗い性格をもつようになった。

 それに対して県南は、仙台藩系の所領てあり、江戸を中心とする武士の交流が多かったので、文化も早くから高まった。

 一関付近にくると、同じ岩手県でも仙台と同じような気風がみられる。

 気温とそれによって起こった産業形態の違いから出たものだろう。

 ただ、東海岸寄りには、直接京都型の血液が海上からはいってきたせいか、京都型の色白細形の美人が少なくない。

 宮古という地名に代表されるように、近畿地方や京都からの移住者が近親婚をくり返してきた地域がたくさんある。

 この傾向は遠野などの盆地においてさらにあきらかである。

 しかし、いずれにしても過疎化が激しく、早急に手を打たねばならぬ状況に直面している。