奈良県




1、のんびりした気風

 奈良といっても、現在この県に奈良朝文化のなごりはない。

 名所旧跡はたくんあるが、それは貴重な観光資源というだけで、県の性格は江戸時代にできあがった大阪、京都の郊外村落としてのものであり、日常消費物資の生産地であり、労働力の供給源にすぎなかった。

 悪人が少なく、不動産の山林がものをいって県としては日本第二の金持ち県であり、生活保護を受ける人がもっとも少ないところで、犯罪もめったに起こらない。

 これは長所だが、裏返してみると、たいした金持ちもいなければ、盗む物もなく、取られるのは野の石仏ぐらいで、史跡の憧れだけでは観光地としても大きく発展はできない。

 交通が不便な山間部には過疎が進み、村全体がなくなったところもある。

 台風、地震、洪水など自然の脅威はほとんどなく、この県にいれば最低生活に追い込まれることがないので、人々の反応は遅く、のんびりしている。

 たまに反応の早い人がいると、あいつには気をつけろということになって、よそから見れば少しのろまに属する人がここではあたりまえなのである。

2、利己的・打算的な一面も

 奈良県は近畿地方の内陸として、西方を山に囲まれているが、奈良盆地を流れる大和川によって大阪湾に通じ、南の吉野川によって和歌山と結ばれている。

 そのうえ、北は奈良山丘陵をへだてて京都盆地に、東は旧伊勢街道の通る初瀬渓谷を経て、伊賀、伊勢に行くことがてきるから、紀伊半島の中央部にはあるが、東西南北の通路の交差地になっている。

 県の北半は奈良盆地の沖積平野て、湿熱の米作地帯として弥生時代以来文化が進んだ。

 とくに北九州から内海を経て大和川渓谷に大陸文化が流入すると、奈良盆地はその定着地として古代支化の中心になった。

 原始国家、大化改新、奈良文化と輝かしい歴史をもつが、平安時代以後は多くの社寺の門前町となり、伊勢参官、熊野詣、初瀬参り、三十三カ所巡礼などの通路として観光地化した。

 それが他力依存的で利己的な性格を、いまの県民性に残している。

 奈良朝の仏教は、庶民にはあまり影響を与えていない。

 これは皇室と貴族だけのものであり、鎌倉時代の仏教も武士階級のものであった。

 ともに一般の人々には関係が浅い。

 奈良県には禅宗の寺は二つしかなく、あとはほとんどが浄土真宗である。

 一年のうち二百数十日も寺社の年中行事があり、それが人々のレクレーションになってきた。

 十二月四日の春日神社の若宮祭には二千名の行列があるが、京都のように山車を曳いて騒ぐということはなく、静かに町を練り歩くだけでエネルギーに乏しい。

 中世の大和国は興福寺領で、武士不入の地であったが、その興福寺の被官がみずから武士化して戦国武将となって争った。

 そのため古代以来の農村共同体の自衛と結束が固くなり、各村落の外周に堀を掘って環涅の垣内集落もつくり、その内部では自治、自衛、救済を徹底的に行なった。

 これが江戸時代から明治、大正まてつづいたので、県民性に封鎖性と内向性をつくった。

 近松門左衛門の『冥途の飛脚』は、大阪新町の廊を逃げ出した梅川と忠兵衛が奈良の旅舘屋三輪の茶屋で金をしぼりとられ、結局無一物になって新口村で捕えられる話だが、昔はこうして旅の客を裸にしてしまうような門前町の特徴が濃かった。

 いまは奈良、初瀬、生駒などの一部を除いては交通革命の中で様相が変わり、古代文化発祥の地としての栄光と自負は消え去ってしまった。

 奈良県民は歴史への懐古性が強いと書いた書物があるが、私はそうは思わない。

 高松塚古墳が発見されたときですら、県民の関心は高まらなかった。

 奈良県ほど濃厚な歴史に囲まれながら、みずからその歴史を知らない人の多いところも珍しいと思うほどである。

 また、この県は長く商業都市大阪に労力を提供し、成功して経営者になる者は少なかったが、養子、番頭、丁稚の供給地であった。

 そのため奈良盆地には大阪資本がはいりやすく、棉花、菜種、大豆、小豆、麻、野菜など商品化しやすい作物が早く発達した。

 これらの品は大和川を下って大阪に運ばれ、見返りとして織物、酒、肥料、塩魚などがはいってきて、県内各地に陸内港ができた。

 農村で農商を兼ねる家がふえ、それらは高壁造りの屋根をあげて、「大和の建て倒れ」といわれたくらいである。

 これが奈良の県民性の中に、打算的で商人的な面を加えたと思われる。

 奈良県の教育がさかんなのも、大阪辺の番頭や丁稚にするために町人教育をしたからである。

 いまの県立高等学校のもとはだいたいが小さな藩校であり、一万石の小藩でも藩校をもっていた。

 奈良県の人は政治家や軍人として出世することをたいして評価せず、平凡な生活を喜ぶ。

 現在、旅行者が接触する奈良の人はほとんどが他国者である。

 観光業の90数パーセントを他府県の人に握られているから、観光業者の性格をもって奈良県民を評価することは正しくない。

3、古い家柄も多い

 県南の吉野山地は林業、東の奈良山中は高原農業で独自に発達したが、いずれも人情質朴、誠実で知られている。

 吉野山中にはいまなお南朝の継承者を誇る筋目の家が何軒もある。

 かつてその中から天誅組や北海道開拓の移民が出たが、いまは林業によって豊かになった。

 昔は米がなかったので、病床で竹筒の米を振られたら臨終が近いといういい伝えがあったほどだが、現代では神話でしかない。

 南の大台ケ原付近は日本最高の多雨地帯で、一年のうち二百日くらい雨が降っている。

 奈良盆地にも古い歴史を誇る家が多く、六百年の家系をたどれる家がたくさんある。

 しかも昔から同じ場所に住みついているので、保守的だが飾り気のない、温良で人なつこい人が多い。

 これが商業資本に影響される以前の県民性だろう。

 この県固有の体型は、細身で顴骨が高く、色青黒いやや朝鮮型の人と、胴長短脚で肥満型、楕円顔の人が多い。

 美人は少ないし、性格は全体的に移り気で、社会的に成功した人は少ない。

 しかし、いまや大阪のベッドタウンになり、県民性も大きく変わりつつある。

 陶芸の富本憲吉、薬品の初代武田長兵衛、薬師寺前管主橋本凝胤だどはこの県の出身である。