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1、山陽、山陰“五つの顔” 山陽と山陰にまたがり、内海の島々を合めて、摂津、播磨、淡路、丹波、但馬の五カ国の地域性をもった兵庫県は、非常に複雑である。 物産も民度も気侯もそれぞれ違っており、気風の差は出身地のからんだ県知事選挙戦の激しさや、ややこしさにもよくあらわれている。 北は裏日本型の積雪地帯で鳥取県に近く、出雲参詣の山陰道が通っているので、はやくから京都の文化がはいった。 静かなところだが、生産が低いので、但馬牛を飼ったり、織物を織ったりして生計を支えてきた。 人間はいいが、引っ込み思案で、小成に安んじる人が多い。 南は神戸を代表に、灘五郷という酒の産地で知られている。 洒造家への労働力の供給、酒の運搬・販売などで現金収入が多く、はやく開けた。 尼崎から姫路付近に至る山陽道沿いの地域には人口が多く、明るくて積極的な性格をもっている。 山陽、山陰の中間に山間部がある。 小さな谷間がいくつもはいり込んで、村々は隔難分断されている。 それを一つの性格にまとめることはむずかしい。 古くは平家の落武者が逃げ込んできたり、戦国武士を出したりしたところである。 狭小な地域のために民度は低く、美人がいないところである。 港町神戸の印象を兵庫県の代表的性格と見るのは誤りで、これは兵庫港として開港地になった宿命がつくりあげた突然変異である。 この県の中にてきた“植民地”というべきだろう。 五つの国を三つの地域に分けても、このように異なった性格をもっているが、江戸時代にも十万石の藩は姫路の酒井家だけで、あとは小藩が摂津に三っ、播磨に十一、但馬に三つ、丹波に二つ、淡路島は徳島の蜂須賀藩の所領と分立していた。 そこへ天領や皇室領がはいりこみ、とても一つの地方としてまとまることのてきない歴史性にあった。 明治九年(1876)、兵庫県になる市は、兵庫、姫路、飾磨、豊岡、名東の五県に分かれていたくらいである。 2、地勢が違えば人情も異なる “義理の浮世じや 添われぬ人に 城崎で逢うてうれしき あの夢ごころ いで湯もどりに手拭さげて、 湯町川 恋もはずかし あの月の影” 「城崎さわぎ唄」には粋な文句がある。 かつて山陰有数の温泉地城崎は、道後温泉を思い出させるような古い様式の湯の街であったが、いまは次第に近代化してきた。 兵庫県の山陰斜面ではここだけが唯一の明るい観光地で、派手な情緒のあるところだが、あとはまったく地味で素朴、暗い鉛色の日本海にぐさわしい土地柄である。 そのかわり鈍重で誠実、保守的で親切、牛でも飼うのに適した気風をもっている。 但馬牛が有名になったのは、高原性の地形のほかに、この人情の積み重ねもあるだろう。 但馬の人々は、封建侍代から山陽筋や京都へ働きに出たので、文化や人の交流はあるのだが全体に古い生活様式を守り、生産が低く、進取的ではない。 体型では、中央山地と違って、山陰型の細身色白の人や、京都風の整った人が見られ、全体に赤ら顔の筋骨質の人が多い。 中部山地は、山地というより高原性の低い山脈が起伏し、交通は南北にのみ発達して東西には進まない。 そのためにいまでもいくつもの地域に分かれて性格をやや異にしている。 鉱山、山林、牧畜などの山稼ぎが多く、民度も久しく低かったが、篠山や柏原のような小城下町では文化が高く、性格もマジメでいわゆる立身出世の人を出した。 やや一途なところがあるが、努力型である。 比較的整った美人も多い。 同じ山地でも、播磨の北、但島の南にあたる地方は、一部に機業で知られる民度の高いところもあるが、全体に貧しく、何百年も同じ土地に住みついてわずかな山林や田畑にしがみついてきた古い家が多い。 保守的、排他的なくせに飽きっぽく、ちょっとしたことで挫ける欠点がある。 しかし性格は善人でわりに温和である。 山地労働に習熟したためか、筋骨質で色黒の人が多く、美人はほとんど見られない。 淡路島は久しく蜂須賀家に属し、生産が低いのに税が重かったので、しばしば一揆があった。 性格は兵庫県より徳島県にはいるべき特色をもち、明るく、派手で、腸性である。 欠点は熱情的なのに持久性がなく、典型的な操欝質に属して感情の浮動が激しい。 あるいは、南紀や内海の海人族や海賊と関係があるのかもしれない。 昔く淳仁天皇配流以来、配流の地になったこともあるが、それがかえって文化を高めた場合もあった。 魚族の種類が豊富な内海にあるので、漁業は農業に次ぐ産業だが、最近は温暖な気侯と阪神に近い地の利を生かして、都市用の野菜や花が栽培されている。 3、古い神戸港の歴史 人口、産業、文化、行政、交通など、すべての点て兵庫県の中心は山陽道斜面にある。 気候は温暖多湿で醸造業に適し、東は伊丹、西は龍野の醤油となって知られる。 醤油、そうめんなどの副業的な農産物が土地の物産になり、流通商品として各地に売り出きれたので、やや商業的な性格をもつようになった。 播磨灘は内海漁業の中心であり、沿岸地方は県第一の農産地として発達し、最近は工業も急激に成長している。 神戸は東の横浜に対して、西の国際的門戸であり、大阪の外港でもある。 この街の港としての歴史は古い。 昔、生田宇治郷とよばれた神戸は、明治元年(1868)、西の兵庫、二つ茶屋、走水を合わせて神戸港と名づけられた。 伝説によると、兵庫港は三韓征伐のとき朝鮮の貢船が入港した武庫水門のことで、大輪田泊とも兵庫の津ともよばれた。 藤原時代には藤原氏の来遊の地であり、平清盛の福原別荘もここにあった。 一時ここに都を移したこともあるが、半年で京都に帰り、さらに一ノ谷に平家の根拠をつくったが源氏に追われた。 鎌倉時代も貿易港として知られ、延元元年(1336)には足利尊氏と楠正成が市内の湊川で合戦している。 のち港としてはすたれたが、江戸時代にはいって北陸廻船が神戸に寄港するようになると、ふたたび勢いを回復した。 以後、西国大名の参勤交替の上陸地となり、安政案約では兵庫港として開港地の一つに指定されるに至るのである。 そこに県庁が置かれ、造船、製鋼、紡績などの近代産業がおこって人口の急激な集中が行なわれた。 神戸から大阪まで人家がつづき、西も山陽線に浴って多くの都市ができあがって、尼崎、西宮、神戸、明石と、ちょうど京浜間のように一個の都市になってしまった。 神戸を中心とする大都市は、大阪船場から逃避した芦屋住民、四国、九州からの移住者、さらに全国からの出稼ぎ労働者を包合して植民地型の都会を形成した。 そのなかに、一見無性格風だが、いわゆる神戸型の気質が構成されていったのである。 4、根無し草の神戸人 新しい“神戸型人聞”は、きわめて開放的で陽性、派手好きで積極的、すべてに強気な面をもつが、利己的で節操なく、移り気である。 元来、尼崎、酉宮、御影などに土着した人は着実で保守的、かつ温和なタィプであったから、新しい神戸型の気風を嫌ったが、次第に古いものは失われつつある。 時代の流れにすばやく反応し、外国の流行をとり入れ、植民地的な気安さから大胆に振る舞う神戸型の人々は、一見洗練されているように思えるが、じつは自分の生活の必然性からそれが発しているわけてはなく、合理性も少ないから、根無し草のように浮動が激しい。 いくらスタイルをよくしても、大阪のド根性を背景にした人たちからは軽く見られてしまう。 結局、“神戸文化”というべきものを生めないまま、模倣をくり返し、異端をてらうことに時を過ごす傾向があるのは残念である。 明石、加古川、姫路、飾磨、相生など南播州の都市は人口の急増によって変貌しつつあるが、それでも神戸のような植民地性はなく、この地方伝統の強気の中に明るく陽性で、快活、多情多感的な性格をもっている。 いわゆる内海型操欝質の一典型である。 一面淡白ではあるが、それが欠点にあらわれるとあきっぽい人になる。 がめつくないのはいいが、大成功をする人もまた少ない。 親切で人なつこい人が多いので、他国へ出ても嫌われないという美風をもっている。 “むこう通るは清十郎じやないか ノーエ 笠がよう似た菅笠が…………。 お夏清十郎の悲恋物語が「菅笠節」に定着しているほど、上方文化圏の文化を長いこと吸収して成長した県である。 その兵庫県も、最近の経済変動の中で、山陽道とその他の部分の生活格差がいよいよ激しくなっている。 淡路島からは財政学の大内兵衛、播州平野からは民俗学の柳田国男、哲掌者の三木清、丹波の篠山からは元首相芦田均、平凡社をつくった下中弥三郎などを出している。 |