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1、日本一の商業都市 日本の商都の中で、もっとも古く長い歴史をもっているのは大阪である。 古代には難波京として大和の外港の役目を果たし、平安京の外港にもなり、中世は石山本願寺の門前町、秀吉時代にはいって堺商人を移しての城下町、江戸時代には日本一の商都に成長した。 『東海道中膝栗毛』にも書かれた三十石船は、伏見の京橋と大阪の八軒家を往復して京阪をつなぎ大名もこの船を使って参勤した。 また大和川によって大和・河内の物資を集散し、北前船は瀬戸内海を通って裏日本の産物を大阪に集め、諸大名はここに倉屋敷を置いてその米をさばいたり、出入商人を金融の相手にして江戸時代には未曾有の発展をとげたのである。 そして大阪は近代の商工業都市にのし上がった。 「大阪の唄」にもあるように、 “むかし芦の葉 いまでは煙 恋のサインを空に書く” という繁栄をもたらした。 その変転はじつに激しく、その歴史はまことに古く輝かしい。 江戸時代、天下の台所になった大阪には諸国の商人が自由に集まり、それぞれ一家をなしていった。 大阪に集中した人口は、阿波、伊予などの四国、摂津、播磨などの山腸、大和、紀伊などの近畿と、ほぼその周辺の者が多く、江戸のように遠隔の地からきた者が比較的少なかったので、植民地や出稼ぎ地の気風をつくらず、じっくりねばり強く何代も稼業をたいせつにして商売を拡張していくことができた。 家の継承にも割切った考えをもち、息子に適任者がなければ奉公人の中から娘に婚養子を迎え、それが慣行になった店もたくさんある。 商家の女房のりっぱさは近松門左衛門の作品によくあらわれているが、その点でも女権家族が多くあらわれることになった。 また、資本分散を防いだり、のれんに象徴される家名や営業権をたいせつにした。 これらはすべて商人が生きて行くための知恵であった。 そこで島ノ内、船場を中心とする大阪商人のあいだに独特の気風が生まれ、これが大阪人気質の根本をつくりあげている。 世にいわゆる大阪の“ガメツサ”もその一つだが、大阪だけがガメツイと見るのはたいへんな誤解である。 功利的、実利的で、実質的なものを尊ぶのは商人として当然であり、商売をする以上、どこの人間でも打算に徹底し、かけひきに長けなければならない。 大阪人だけがこの批評をうけるのは、やはり努力に努力を重ね、豊富な経験とすぐれた勘によって成功する者が多かったので、他国者が嫉妬したためだろう。 2、にくめないガメツサ 太阪の人は商売に対して真剣に立ち向かうが、むしろエゴイズムの要素は少ない。 カバンーつ買いにはいっても、その店に希望する商品がないとき、どこへ行けば売っているはずだと商売がたきを紹介してくれるのは大阪だけである。 古い商慣習の中に相互扶助が発達し、商取引の信用や恩義は東京よりはるかに厚い。 これは依るぺき権力がなく、あるいは彼らが権力を認めず、商人として自立するための必要から起こった道義ではないだろうか。 そのうえ、まことに失礼ながら、大阪人は商売にはガメツイが人間としてどこか抜けている、という“美点”がある。 これはじつに大きな救いである。 合理主義の中に見られる不合理性とでもいうぺきものだろう。 “食い倒れ”といわれながら、ほんとうはえらく食事などを倹約しているのに、まったく無駄なことに同情して金を出したり、見栄を張ったりする。 涙もろいのも特色である。 躁欝質といってしまえばそれまでだが、基本的にヒューマニストだからてはないかと私は考えたい。 江戸時代、酒と流行は上方から江戸へ流れてきた。 明治以後、はやり風邪と米騒動も上方からきた。 現代てはすべてのものが東京から関西へ流れるように思っているが、いまでも繊維や各種の工業製品から漫才まで、上方から東京へ向かって流れてくるものは多い。 薬品や金属品など、大阪に中心のある産業も少なくない。 東京ー大阪間は新斡線で三時間、ジェット機なら四十五分である。 大阪も東京も同じ街になってしまいそうだが、なお大阪人の心には東京コンプレックスが残っている。 東京には中央省庁があり、人口も大阪の二倍ほどある。 しかし、それだけではコンプレックスをもつ理由にならない。 私は、東京こそ寄せ集めの植民地、田舎者の新興地と思っているが、大阪人は勝手に東京をあこがれの中心地と思っているようである。 これは明治政府以来の権威主義の政治がつくりあげた幻影にすぎない。 むしろ大阪こそ民衆のつくった、反権威主義の、民主主義にふさわしい大都会なのである。 3、反権威とド根性 江戸時代以来、大阪人のド根性はこの反権威主義の上に築かれてきた。 江戸の商人は権力を利用し、権力のかげに隠れた御用商人的なものが多かったが、大阪商人はまさに裸一貫、自分の努力と運だけで栄えた。 そこで自然に身についたのが、打算的なガメツサ、のれんに対する誇り、無茶苦茶とも見える精進である。 その目まぐるしい努力の中で彼らが自己開放をする知恵は、漫才や上方落語に見られるような笑いと、食い倒れといわれる味覚の享受であった。 こうした健康な生活態度は大阪人の美点だろう。 いまや大阪の商習慣や生活様式は大きく変わりつつある。 かっての船場、島ノ内は姿を消し、前垂れをしている人はいなくなった。 商業もコンピュータ化し、働く人々もネクタイをしめたサラリーマンである。 しかし、それでもなお大阪伝統のド根性は存在している。 最近は純粋の大阪弁をめったに聞けなくなった。 上方劇を見ても、船場から移った芦屋夫人の会話にもそれはない。 老人か落語家の一部に残っているだけである。 ところが、大阪の商社では大阪弁の講習会が開かれている。 これはじつに珍しいことで、田舎出の新入杜員を集めて、商業語として必要欠くべからざる大阪弁を受講させるのである。 大阪弁はしっかりした意志を潜在させながら、相手を刺激したり傷つけたりしない表現法をもち、流れるような滑脱な発音が特徴である。 方言の保存がいいとか悪いとかではなく、大阪弁が消え去らぬかぎり大阪のド根性が生きつづけることを期待したいものである。 大阪府は摂津の一部と、河内、和泉の両国から成っている。 4、河内の人は人情家 大阪市は摂津にはいっており、人口と文化では断然他を引き離しているが、各地それぞれに一風異なった人情が存在している。 “さて一座のみなさま方よ 申しあげます段の儀はサ 志賀弾七なるお噺を 二人が武術の稽古いたされる 未になりましたることならばサ かの子が原というところで いよいよ仇討のお噺にかかる ことの善悪わかるまてサ おんひそやかにたのみましょう” 延々一晩つづく「河内音頭」のくどきである。 これが間こえてくると、踊り好きの河内人はじっとしていられない。 彼らは何時間踊っても飽きないのである。 大阪を支えるパックボーンの秘密として、この隠されたエネルギーを見落としてはならない。 「河内音頭」は、八尾の地蔵盆踊りがもっとも古くてかつ古い形を残しており、三河内郡では南北中部でそれぞれ差があるが、いずれも民衆参加の踊りでただ見物するものではない。 筋は鈴木主水や朝顔日記だが、内容よりも連帯感の中でエネルギーを発散しあい、共同体的確認を行なって明日の活力を再生産するのがたいせつなのである。 河内の人はことばや行儀が悪く、ギャンプル好きで、貧乏なくせに大言壮語するともいわれる。 そんな一面は今東光の文学によくあらわれているが、反面、きわめて庶民的で、泥くさいがよく立ちまわり、案外自分に正直である。 自主性があり、権力を認めず、頼ろうともしない。 好悪の念が強いが、どこか考えのまわらないところがあって、悪人になりきれない。 なかでも最大の特色は、非常にドライなことをいいながら、なかなか人情に厚い点である。 おそらく、庶民が支えあってきた長い生活の習憤によるものだろう。 5、繁栄を支える府下の各地 和泉の国では、堺、和泉、佐野、貝塚は港として古くから栄え、岸和田、伯太に藩があった。 紀州街道に浴った海岸地方がひらけ、漁業や綿花、砂糖の物産で知られたところである。 河内と同様、農産物を主にする商人や地主が勢力をもっていたが、ここの特色は堺や佐野から廻船業で大をなした豪商が出たことである。 このため早くひらけて河内よりも洗練され、趣味も高い、やや都市的になったが、人々の性格は保守的で、新しい時代に対応することが不得手のようである。 摂津国は、現在西部が兵庫県にはいっている。 大仮府にはいっているのは、 “野崎参りは屋形船でまいろ お染久松切ない恋に…・ と「野崎小唄」で有名な野崎観音のあるところといったほうがわかりやすいだろう。 要するに大阪市の北側で、野崎詣りは大阪人の古くからのレクリェーションをかねた年中行事であった。 摂津の南には掟川と神崎川があって、浴岸には川港が発達し、平安時代以来、人と物の交流が激しかった。 しかし、この地に滞留しなかったので単なる通過地帯になり、そのために人情が荒されず、大阪府下ではいちばん純朴な形で残ってきた。 その代り、半世紀前までは貧困で開発が遅れたのもやむを得ない。 阪急などの私鉄の開通で大阪の郊外になり、いまでは南河内とともに重要なベットタウンになった。 商都大阪の繁栄とド根性の背景には、摂津、河内、和泉の生産と労働力と人情があることを忘れてはならない。 大阪人には排他性が少なく、各地の人間をあたたかく包む。 釜ケ崎などに全国の浮浪者が流れつくのも、挨拶さえすればすぐ仲間意識をもちあい、一日五十円でも暮らせる実利があるからだろう。 また、大阪からは天下を狙う人が出ない。 豊臣家の没落以来、権力のむなしさを身にしみて感じ、徳川慶喜が鳥羽伏見の合戦に失敗して天保山へ逃げて行くのを見ているから、権力などはアホくさいのである。 この金銭第一主義、反権力主義、人間関係重視、享楽主義が華僑の性格と似ているところから、大阪人をかつて“阪僑”と呼んだ人があった。 しかし、目的意識はまったく華僑と違っている。 そして大阪人の生活には、思いがけず古いものが残っている。 盆・正月はもちろんのこと、節句、祭礼、迷信まできちんと守り、きわめて保守的な一面が同居していることは非常に興味深い。 この点は京都に次ぎ、東京などとは比較にならない。 大阪は伝統を踏まえながら前進しつつある街なのである。 作家司馬遼太郎、黒岩重吾、開高健、五味康祐など、いずれも文学の上に大阪の味をにじませでいる。 山崎豊子、田辺聖子、河野多恵子などの女流作家も大板出身である。 異色の人では折口信夫(釈超空)も大阪人である。 |