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1、温柔に見え実は冷徹 京都ほど他県の人々からその地域性や人情をよく知られているところは少ない。 しかし、京都人の意識と、他県人の理解との間には相当な距離がある。 また、京都ほど毀誉褒貶、相反する評価をうけているところも珍しい。 京都市は四方を山に囲まれ、淀川とその支流の流れる平野に発達した平安朝以来の古都である。 その周辺は生産地、労力の供給地として京都市の後背地域をなしている。 京都市はかつては政治都市であり、のちに複合門前都市になり、現在では観光地に変わって全国の修学旅行生のメッカになった。 文化はもっとも高く、時代ごとに台頭する勢力はこの地を憧れ、争奪戦は何度か町の運命を左右した。 そのため市民は激動と転換の中で身を護る知恵を身につけるようになったのである。 同じ京都でも、都市部と周囲の農山村ではまったく人情を異にしている。 北には日本海に面する宮津、舞鶴のある丹後国。福知山、亀岡の丹波の国の一部があり、山城の国は京都府の面積の四分の一にも足りない。 したがって京都市だけで京都のすべてと考えるのは誤りである。 周辺部についてはあとで述べるとして、まず京都市民の性格だが、第一には観光地としての影響を強くうけている。 人の出入りが激しいため、他国者に気を許してはいけないという自覚を育てると同時に、一方では彼らに依存して生計を立てる知恵を磨いた。 そのためみずから護ること堅く、他には一見温柔に見えて、じつは冷徹な性格をもっようになったのである。 京都に事変があればただちに輪送路が止まって、数十万を越す人口は周辺の生産だけては支えがたくなる。 そこて蓄蔵の技術が進み、各種の保存食品が生まれ,それをたくみに調理する才能ができあがった。 このような自然と歴史は、京都人の性格を形成する大きなカとなったのである。 “いけず どいけず かんにんどすェ シャケド イヤヤワ 京なまり(先斗町小唄)” といった京ことばは「鴨川小唄」にあるような情緒をかもし出すにはいかにもぴったりしている。 “涼床のすだれにぼんぼりの 影もなまめく京なまり” しかし、それは一面であって、反面この女房ことばは間接的表現が多く、断定が少なく、わかったようなわからないようなひどく要領を得ない表現法であり、これが京都人の護身の具として大いに活用きれていることを見逃してはならない。 京都の人は、いま正午の時報が鳴っていても、「十二時とちがいまっか」と遠まわしないい方をする。 はっきり物をいえば損をするという観光地・商業地の性格と、うっかり物をいうと危倹な目にあう政変の地という条件が、こうした表現法をつくりだしたのだろう。 2、保守と進歩の二面性 百貨店でよく「京都うまいもの会」などが催されるが、行ってみると、まるで漬物と保存食の会である。 この漬物は昔は京名物の粥に調和した食品で、京都に多い寺の食事が市民生活に影響したものである。 しかしそのほんとうのところは、倹約、質素な京都人の食生活に適していたのだろう。 華やかなようでいて、戦乱の非常時にも耐えられる習慣が保持されているのは興味深い。 保存食をじょうずに調理し、すべての素材をたくみに生かして使う神経の細かさは茶懐石を定着させ、類まれな京料理を作りあげた。 まさに文化の高さの象徴であり、京都人の繊細さのあらわれである。 京都人には豪壮雄大な気性が少なく、緻密繊細な人が多いこともこれに関連があるように思われる。 数は減っても紅殻格子やだらりの帯が現代に生き残っているのは、京都の保守性のあらわれである。 れんじ格子は他国者や狼籍者の侵入を肪ぎ、紅殻塗は宮殿の彩色の影響で起こった古い様式をとどめている。 祇園祭りの山鉾のすさまじいエネルギーについては前にもふれたが、こうした伝統の権威を認める寛大さが、京都人の誇りにまでなっている保守性だろう。 年中行事、祭事風習、迷信、旧暦観念などを若者たちは年寄りのノスタルジアにすぎないというが、その若者が家をつぐころになると、ほとんどが抵抗なく伝統の習俗を受け入れているのである。 このように京都の特徴は古さにあるが、その一方で、きわめて新しい面をもっていることも独特の気風である。 それが京都タワーのアンバランスを解消し、革新府政を推進する力である。 古いものをきわめてたいせつに護りながら、新しい時代に生きて行く知恵をもち、進歩思想を受け入れるのにけっしてやぶさかではない。 それが京都に無限の生命力を与えているのだろう。 京都に電灯がともったのは明治二十五年、市電の誕生は明治二十八年、公立女学校の創立は明治五年、みな日本一早いものである。 考えてみると、西陣織も友禅染も、当時としては抜群に新しいものであった。 茶の湯も同様である。 この面で、京都はけっして死んだような古い町ではなく、つねにその生命を新しい時代に再生産してきた町であるといえよう。 高い文化に支えられてきた町だけに、町全体をあげて学問や芸術を育成しようとする雰囲気も感じられる。 京都ほど学者と芸術家をたいせつにするところはない。 政治権力や金力ではなく、貧乏でも学者や芸術家を尊敬するので、多くのユニークな文化人を生んだ。 いちいちその名をあげないが、これこそ京都最大の財産であり誇りである。 京都人は冷徹な一面をもつが、冷酷ではない。 理性の伴う性格である。 長い間の生活経験から相互扶助の習慣をもち、政治が自分たちを護ってくれないことをよく知っていて、みずからをみずからの手で護ってき、仏教はいまでも京都の人々の生活の中に生きている。 仏教思想の浸透は単に権力への密着と観光地化によるものではない。 たくさんの寺が生きつづけてきたのには、京都人の外護の力が大きく作用している。 しかし、この仏教が相互扶助に働く間はよいが、ときに仏教の諦観が生活に深入りして積極性を失わせることがある。 それは弱点に通じるが、京都人の温柔さは、すべてが社交的なゼスチュアではなく、人なつこい温かさが仏教思想や高い文化によって培われていることを認めたい。 3、古くは帰化人が開拓した いまの京都市付近は、太秦を根拠地とした帰化人の秦氏によって開拓された。 稲荷神社や松尾社を開いたのも彼らである。 その農業開拓、治水、酒造などの技術は、この地に古くから定着した。 その子孫と、奈良の都から入った大和の人(それも帰化人を多く混えていた)、およぴ賀茂神を信仰する出雲系の土着の人々が合わさって、最初の京都の人となったのである。 京都は、大阪湾から近江を通り若狭へ抜ける自然の通路でもあった。 そこで周辺の人はむろんのこと、伊勢、美濃、関東などから多くの人が出入りし、大阪が商都になると、それとの交流もさかんになった。 この長い歴史の中で形成された京都型の人間は、一言でいえば朝鮮型に近いが、より細身で、長顔、青白く、毛深くない。 そしてやや低血圧で貧血気味である。 この中から小野小町型の美人が出た。 これに対して、郊外には胴長短脚、ずんぐりしてやや丸い赤ら顔、筋肉質の人が多い。 古い絵にガる引目鈎鼻の藤原型美人はこの中から出ている。 いずれも日本人の中にもっとも多い墓準型日本人の代表である。 前述のごとく、京都の人は保守性と進歩性がほどよく調和しているが、女性は全体に忍耐強く、スタイリストの傾向がある。 男性は外向的でないので損をするが、温和である。 ただ、最近は若者の東京化が目だち、老人たちを嘆かせている。 4、洛外の風俗・人情 “紺のなア 紺の前垂れ 朝露わけて 花を売ろうか 唄を売ろうか” という「大原女小唄」が京都にあることを知る人は少ない。 大原女は桂女と並んで、一時代前の古い風俗で京都を行商し、洛外の風物詩になっていた。 “昔馴染と つまずく石は 憎いながらも ふりかえる” なかなか味のある文句だが、これは、 “二度と行くまい丹後の宮津 縞の財布がからにる” という「宮津節」の一節である。 宮津は良港で、天橋立をひかえて、男にば魅力のあるところであった。 そうかと思うと、 “鬼の住むちゆう大江の山も 春ばやさしいうす霞” とうたわれた大江山鬼退治の舞台も京都府であり、「福知山音頭」に、 “福知山とは誰が名をつけた こんな城下を山じやとは” とある福知山も丹波の京都といわれる城下町である。 明智光秀の話で知られる亀岡は、角倉了以が保津川水運を開いて以来、丹波、丹後の物資を京都に搬出する陸内港として重要な意味をもっており、こうして数えあげていくと、京都府には京都市とちがった地域性をもっているところがたくさんある。 しかし、丹後や丹波は山陰の物資を京に運ぶ路線として発達し、山城国は都の後背地として農産物と労働力を提供したので、人の交流も激しく、人情は京都市の美点と欠点をあわせもっている。 そしてその上に、純生産地としての自立性、耐乏性、さらに勤勉で健康な生産労働者の性格をもち、京都市よりはるかに質朴て純粋である。 ことに丹後国は都会的なところがぜんぜんなく、誠実だが時の流れに対する反応が鈍くて、立ち遅れが目だっている。 体型も裏日本型の朝鮮的特色が濃く、但馬や因幡に似て小型、細身の人が多い。 丹波国は、西半分が現在は兵庫県にはいっているが、福知山、綾部、園部、亀岡と山陰線に浴って人口が集まり、開発が進んでいる。 しかし、生産は少なく、出稼ぎが多かったので人情は質素で誠実てある。 体型は筋骨質が多く、努力して初志を貫く人が少なくない。 木津川沿岸の京都平野南部に位置する山城国は、古く帰化人が開拓し、旧平安貴族の所領などが散在して文化は早くから高かった。 木津川中流の銅山で和同銭を鋳造したり、恭仁京という聖武天皇の行宮がてきたりしたが、都の政変のたびに戦乱にまき込まれることが多く、源平の争い、南北朝時代の笠置山の戦い、幕末の鳥羽伏見の戦いなどの舞台になった。 そのためと、農村の都市化が早くから進んだために、人情は俊敏で利にさとく、疑い深いといわれる。 ただ、平板な発音が多く、テンポがやや遅いので、つい朴訥な温良さのほうを先に印象づけられる。 大原から若狭街道浴いや北山地方はほぼ南山城に近く、桂から淀、八幡などはむしろ北河内と類似して、大阪の影響がすべての点に多く見られる。 |