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1、帰化人の開いた土地 県の中央に日本最大の湖・琵琶湖があり、陸上交通が不便な時代には、京阪地方と東日本や裏日本を結ぶ重要な交通搬送路となっていた。 近江商人が早くから裏日本や北海道に進出したのも、湖上交通路の延長としてであった。 湖上交通は湖のまわりに住む人々を同じ性格にするように思われるが、じつは湖北、湖南、湖東、湖西でそれぞれに違う四つの地域性がある。 湖南ば朝鮮から来た大量の帰化人によって拓かれ、滋賀京や信楽京があって、古くから文化が開け、その子孫には経理や経済観念に秀てたものが多かった。 私たちがふつう江州人と呼んでいるのは、この湖南と湖東の人のことで、人口もいちばん多い。 湖東も帰化人によって開け、早くから麻の栽培がさかんで、のちに蚊帳の生産が起こった。 蚊帳の目のあいた織り方は絽のような薄物織りの帰化人技術によるもので、この蚊帳の全国的な行商販売が近江商人を育てるもとになった。 一人二十帳を天秤捧で担ぎ、信州や関東にまで売りに行くのだからたいへんな重労働である。 こうした積極的な商業習慣が、江州人を他国で成功させ、利益を故郷へ持ち帰る能力をつくりあげたのである。 県内を東海道、中仙道、北陸道が通り、すぐ西に京都という一大消費都市をもっていたことも、この県を物資の伝送地とし、商業的にめざめさせる要因となった。 しかし、明治初年ですら、東海道線は膳所と長浜の間を湖上交通によってつないでいた。 臨湖船という琵琶湖の船車連絡船のことは、いまも長浜の歌に残っている。 そのうえ、湖岸平野は水位が不安定で水害が多く、大中湖遺跡をはじめ、多くの水没村落のあとが発見されている。 北からの吹き込みはきびしい寒気と積雪をもたらし、県の北半分は裏日本的な自然環境をもっている。 また、源平の合戦以来、京都を目標にした事件が起こると、必ず戦乱の巷となって大きな被害をうけた。 行商をはじめとして商業に活路を見出そうとするのは、土地の人々が身につけざるを得なかった生きるための知恵でもある。 2、合理性と誠実で売る “津々浦々より集い来る 二五八市の八日市 売りと買いとの花が咲く 向かいはきぬがさ黄金村 歴史尊い笠の汗 白いお倉に陽がはえる” この県ほど一般に知られた民謡の少ないところも珍しい。 滋賀県の人は、のんびり民謡を歌っている暇もないほど稼ぎに忙しかったのだろうか。 「江州音頭」はやたらに県内の地名と景色が歌い込んであるので、明治以後の新作のように見えるか、じっは古くからあった河内音頭風の「八日市祭文音頭」という長い口説きを明治初年に整頓したものである。 この文句にあるように、県の繁栄ば旧城下町の定期市と、行商の尊い汗、それに大津を中心とする諸藩の蔵屋敷からの収益に支えられ、やがてその資本をもって都市に進出し、出店や質屋をつくって得た利潤を郷里に還送して築きあげられたものである。 「近江泥棒」という悪口は、他国者にまねのできない勤倹力行や克己忍耐をねたんだことばとみるぺきだろう。 自分の故郷を見捨ててよそで出世するのではなく、他国は働く場所にすぎず、成功して老人になったら田舎へ帰って隠居するという伝統があった。 近江商人というのは、正しくは蒲生、神崎、愛知の三郡、とくに近江八幡、日野、五箇荘を中心とする地方の商人のことで、はじめは行商、のちは都市に出店を経営し、金融、漁業、工業にまで手をのばした人々のことである。 出店は番頭、脇番頭、回り役、店番、丁稚の序列をよく守り、近江出身の男子が単身赴任して商売をきりまわしたので、残された妻は“関東後家”とか“京都後家”などと呼ばれた。 したがって、近江人はそっくり利益を故郷に持ち帰り、倹約質素な生活をして子孫に資本を伝えることを第一に考えた。 大きな家に住んだり、ぜいたくをすることがきらいで、大成功者になっても郷里に寄付をすることもほとんどない。 鹿児島出身の成功者などと比べるとまさに対照的である。 それが「草も生えない」とか「ドロボウ」の悪口をもたらしたが、じつは合理的で堅実な経営を守り、信用を子孫に伝えようと努力した結果なのである。 近江八幡の町なみを見ても、大した邸宅はないが、内容は何億という資産家で、東京や大阪で何百億という年商をあげている人が少なくない。 蒲団商の伴伝も、もとは蚊帳の行商だったが三百年を経た今日も東京を出先機関と考え、本家を近江八幡に置いている。 伊藤忠、丸紅、西川など、代表的な近江商人の系統はいまも繁栄をつづけており、かつては白木屋も高島屋もそうであった。 3、井伊直弼は例外 井伊大老の性格はこの県を代表しているとは思えず、あきらかな「触発現象」の一例である。 彼は封建諸大名の中では珍しく国学をおさめ、平田学の影響をうけて尊王心が強かった。 たまたま安政条約の調印をしたため、に皇室に抵抗したようにとられてしまったが、あれがなければ徳用光国のような皇室中心主義者なっていたはずである。 実利を離れ、犠牲をかえりみず正義を貫き、自分が残したものは“埋木の舎”一つという彼の生き方は、近江にはごく少ないものである。 近江の人は商業的だが、勤労によってのみ報酬を得るという気持ちが強く、努力型で、からくりや要領のよさを認めない。 県内に歓楽境が少ないのもその性格のあらわれである。 全体として見ると、県の南寄りにば躁欝質で明るい人が多く、北には無表情な人が混るが、計画性があって合理的な人が少なくない。 いったいにねばり強く、よく辛抱する。 ただ、軽快、覚大、淡白などの点に欠けている。 都市を離れると情に厚い人が多い。 一度の知り合いで生涯交際をつづけるという美点がある。 体質は京都型と東海型の中間で、中型中肉、色やや黒く、楕円顔。 ときに京都風の細形美人も出るが、いったいに目立つ人は少ないようである。 女流日本画家の小倉遊亀は大津の生まれ、歌人の木俣修は愛知川町出身である。 |