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1、国全体が“門前町” “烏が物いうた 鈴鹿の関で 娘女郎なら 乗しょというた” 「鈴鹿馬子唄」なら、つぎの一飾のほうが有名である。 “坂は照る照る鈴鹿はくもる 間の土山 雨が降る” しかし、これは少々現在の地理にあわない。 それはとにかく、ここで問題になるのは、鈴鹿峠で生まれたこの馬子唄が、木曾の馬方節、信州の小室節と追分節、北海道の江差追分節など、各地の民謡に伝播していったということである。 おそらく江戸時代にさかんだったお伊勢詣りのためだろう。 伊勢古市の「伊勢音頭」が参宮客や大神楽によって全国に伝えられたのと同様である。 つまり、伊勢国は古来、日本各地の人々が伊勢参宮を目的に寄り集まるところで、国全体が門前町のような性格をもっているところであった。 伊勢神宮にはいわゆる氏子がいない。 本来は天皇家一つだけが氏子なのである。 昔の神社はみな氏子制で、村落の産七神だが、伊勢神宮の場合はことばをかえていえば、日本全体が氏子とも解される。 これは伊勢神宮の御師と呼ばれる宜教師が、神宮が貧困になると伊勢暦という農事暦を持って全国を歩き廻り、米を集めて金に換え、伊勢へ運んだので、その活動が伊勢神宮を日本人の総氏神と思い込ませたのである。 農村では伊勢講といって、金を積み立て、御師の案内で集団参詣の旅に出ることがさかんになった。 江戸時代では、肉親の死亡とか、神社仏閣への参拝などの理由がないと勝手に旅行がてきなかったので、信仰というより一種の観光旅行として伊勢参宮をする人が多かった。 伊勢付近には遊里が発達し、物見遊山と自己開放をかねた参詣旅行が人々の関心を煽ったのである。 とくに東北地方の農民は、伊勢へ行って暖地系の米の種や松阪木綿の種をもらって帰ったので、品種改良にも大いに役だった。 古市の「縞さん紺さん」の歌は、参詣帰りの遊興のようすを伝えている。 “お伊勢もどりに宿とりましょう 縞さん紺さん寄てかんせ(中略) お泊りならば泊らんせ お風呂もどんどん湧いている ついでに行灯も張h替えた 畳もきのう表替え お寝間の伽がいるならぱ 新造衆なりとも年増衆なりともお望み次第あ もしわっちでよいならば 急に化粧もしてこましょ お泊りならば泊らんせ……” と長々しいものまである。 売春防止法の成立まで県内には三十三力所の遊廓があり、紅灯のにぎわいを誇っていたのは、古い伝統の名残りかもしれない。 皇大神宮と遊里が吸引力となって、伊勢本来の生産である米、木綿、白粉のほかに、他人の財布をあてにする商売が昔からさかんであつた。 2、強い摘人的気風 「伊勢乞食」ということばがある。 三重県の人は「伊勢っ子正直」の訛りだというが、少々苦しいこじつけである。 昔は、米を生産しないで暮らすことを、米をもらうという意味でひろく乞食と呼んだので、これは「伊勢は商人の国」といっているのと同じである。 これを聞いて怒るのは筋ちがいだろう。 その証拠に、日本一の豪商・三井家も松阪から出たし、江戸で伊勢屋といえば質屋の代名詞で金持ちのことである。 いまでもこの県から名吉屋や大仮へ出て成功している人は非常に多い。 みずから生産せず、他人の財布をあてに暮らす長い習慣は、有数の商人を出す結果を生んだのである。 県北には菰野米のような良質米がとれるが、古くは水害や風害が多く、米作農業は不安定であった。 そのため菜種や綿花をつくって農業の立体化をはかったり、参宮街道を往来する人々を財源にしたりして、この地の人々は自己防衛の知恵を身につけた。 他国者に対しては、ドライだが愛嬌よく、惰報がよく集まったので先を見るカンにもすぐれている。 そして努力型で合理的、他人を警戒しながら、主張すべきことはちやんと主張して筋を通す気風をもっている。 ただ個性として、強く自己主張する人と、内気てそれがてきない人の二種類がある。 3、伊賀忍法は自衛の智恵 三重県は伊勢国を中心とし、西に伊賀、東に志摩、南に紀伊の一部を含んでいる。 南の志摩国はリアス式の海岸をもった山地で、黒潮に洗われ、古くから漁業で生活をたててきた。 現在は観光事業や真珠養殖に都市の資本がはいっているが、それでも土着の人々は昔ながらの漁法によって暮らしている。 ことに志摩の海女は世界的に有名である。 古代人の生き残りのような一面があり、平素は篤実だが、激すると見境いがなくなる南海型の人が多い。 黒潮の関係で色が黒く、筋骨質であまり美人はいない。 伊賀国は昔から一郭をなして、大和とも伊勢とも異なり、四百年前の筒井氏入国までは無主の地であった。 その自衛の知恵がいわゆる“忍法”である。 忍者というのは第三者がつけた名前で、土地の人々にとっては自衛警察組織であった。 最初にこれを政治に利用したのは聖徳太子で、その伝記に細人という文宇が見られる。 伊賀衆は心身を鍛練し、幻術(催眠術)を利用して情報を集めるだけでなく、猿楽、居合抜き、猿回しなど、大道芸人としての特殊技能にも長じていた。 遊芸人は関所手形がなくてもその芸を披露すれば自由に通行できる特権をもっていた。 その中から有名な観阿弥が出る。 彼は足利義満に仕えて能楽の観世流を起こした。 徳川家康に仕えて秘密警察を担当した服部半蔵も伊賀衆の一人である。 半蔵は家康の前で、扇一本で姿をかくしたと伝えられるが、これは美しい扇を開いて畳に立て、パッと手を離しても倒れないので一同がそれに注意を奪われているうちに家康のうしろにまわるという一種の手品の類である。 現在、伊賀上野に忍者博物館があるが、すっかり観光用に変形されてしまった。 忍法は二百六十年の徳川時代にすっかり姿を消し、いまや忍者の伝統はまったく残っていない。 おだやかで朴訥な人の多いのどかな盆地である。 その南部は大阪の通勤圏にはいって、都市化が進んでいる。 伊勢地方の人は、色は白くないが、筋肉質で楕円顔、名吉屋の人に似ている。 しかしここもあまり美人を見かけないところである。 作家の丹羽文雄、田村泰次郎、万葉学者の沢潟久孝はこの県の出身である。 財界人も少なくないが、日本一の豪商を生んだ土地にしてはあとにつづく大物がいない。 |