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1、篤実な人情の飛騨地方 岐阜といえぱ長良川の鵜飼いを連想するが、これは『日本書紀』神武天皇紀にその話が出てくるくらいで、古くから日本各地で行なわれていた南方的漁業法の一つである。 人工保育ができよい海鵜を使うので、鵜飼は海鵜の分布圏にだけ広まった。 のちに都の遊びになり、京都の大堰川(いまの桂川)などでよく催された。 『枕草子』にも鵜飼を見た話がある。 京都文化に憧れていた織田信長が、たまたま長良川で行われていた鵜飼を保護したことが、その後これを岐阜県の名物にしたのである。 いまも鵜匠は腰蓑をつけるが、これは大昔、鵜飼が南方系の習俗であったことの証明である。 また、飛騨国も独特の文化で現在は貴重な観光資源の一つになっている。 飛騨は日本でもいちばん純朴で、篤実な人情が残っているところである。 山の中にあって文化は遅れたかのように見えるが、昔から木材、木工技術、鉱物など、山に関するものによって裏日本とも表日本とも交流をもち、京都の文化も早くから取り入れている。 この地には、しっとりと落ち着いた文化と人情と富が育った。 戦国時代には、もちろん攻防の地として被害を受けた。 江戸時代にはいって金森氏の治下となり元禄年間に天領に変わり、その間いくつかの庄政や一揆の歴史がある。 しかし、野の民とちがって、山の民は搾っても搾りきれないものがあり、それが飛騨の人情を荒らさなかったのだろう。 2、エゴイスティックな美濃の人 それに対して、美濃のほうは斉藤道三が尾張の織田に攻められた悲劇の地である。 さらに慶長五年(1600)には関ケ原の戦いがあり、天下分け目の血なまぐさい闘争が行なわれた。 また長良川、木曾川、揖斐川が接近する低地帯には非常に氾濫が多く、民衆はさまざまの辛苦を負わねばならなかった。 人々は村のまわりに堤防を築き、輪中部落をつくって村々を水から自衛した。 輪中部落が岐阜県に非常に多いのは、長い間の水との戦いの苦しさを物語っている。 やがて宝暦年聞にはいると、幕府は薩摩藩に命じて三川の合離工事を行なわせたが、あたかも天明飢饉が生じて薩摩藩士は辛酸をなめつくし、これが倒幕運動の端緒になったほどの難事業であった。 そこへ中仙道が通り、商業資本がはいり込んだために、美濃の人情はエゴイスティックにならざるをえなかった。 ずる賢く、要領よく立ちまわることも、こんな土地に育った人の生きんがための知恵てあったと思われる。 南は伊勢、西は近江と、利にさとく、努力型の気風をもつ土地に接していることも、美濃の人々をちやっかり型のエゴイストにした理由であろう。 このような歴史と自然の結果、飛騨と北美濃では、保守的で武骨、社交的ではないが篤実で幅頼できる人情が生まれた。 いまでも努力型の、とっつきは悪いが敵をつくらない人が多い。 郡上八幡には、その美しい人情にふさわしい「郡上節」がある。 “盆のお月さま まん丸く 丸くまろて 角のうて 添いよかろ おばばどこ行く三升樽さげて 嫁の在所へ孫抱きに などと、人情味あふれた文句もある。しかし、……………。 “白い黒いで 自慢のものは おらが在所のまゆと炭 となると、だいぶ土俗くさい。岐阜にも、……………。 “岐阜はよいとこだよなァ 金華山のふもと そうらばえ 織田のかわずがなァ 寝ちょって間ィける そうらばえ と、いまの歓楽都市からは想像もできないような民謡があった。 同じ美濃国の中でも地域によって人情の差が大きく、これは全国でも珍しい現象である。 南美濃は、社交的だがムラの多い、自分本位で要領のいい人情を育てた。 目先はきくが、鐘紡をつくった武藤山治のように人道主義を貫きながら事業に成功する人はまれである。 名古屋の影響があるのか、案外合理的にみえながら、経営方法や私生活に不合理な人が少なくない。 歓楽街やギャンブルの繁栄はそのあらわれだろう。 3、観光公害の不安も 岐阜市が歓楽境になったのは、第一次大戦の好景気時代に、繊維工業をもっていた人々の金が落ちたことにはじまる。 政府が税収入をふやすために黙認したことも原因だろう。 それが一時不況になったが、昭和にはいって業態を変え、きらに第二次大戦後に復興して今日の隆盛を見たのである。 最近、この県は飛騨、美濃を通じて観光経営が成功している。 司馬遼太郎の『国盗り物語』によって、さらに観光客がふえたようである。 高山は人々の心に忘れられつつある郷愁を呼び起こし、白川郷にあてられていた脚光が薄れてくると、高山祭りが人気を呼ぶ。 美濃には鵜飼があり、対岸の大山と組んだ川の観光も多くの客を集めている。 もちろんこれに文句をつける筋はないが、観光公害が発生し、観光資源を枯らせてしまうのてばないかとそれが心配でたまらない。 せめて飛騨国あたりだけでもそっとしておきたいような気がする。 善良誠実で努力型の飛騨の人に比べて、美濃にかけひき上手な商業的人間が多いのは、繊維工業以前から、名産の美濃紙をもって名古屋に出て、名古屋商人とわたりあってきた結果でもある。 したがって、大野伴睦のように大人物を装い、抱擁力を示したがる性格は岐阜の県民性にはない。 彼の場合、故郷は美濃だが東京生まれの東京育ちで、商売人的な気風が東京で「触発現象」を起こし、岐阜県の異端児になったと考えられる。 岐阜県人は人を利用することが非常にうまいので、彼をたくみに持ちあげて、とうとう田圃の中に新幹線の駅までつくらせてしまったのである。 日本画家の前田青邨は中津川市の出身、洋画壇の仙人といわれる熊谷守一も岐阜県の人である。 |