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1、忍耐力と根性 いまから百年あまり前まで、青森県の東部には蝦夷村といって旧アイヌと関係深い村落があった。 そこの女は、顔はきれいだが毛深くて臭気が強いなどといわれた。 また、慶長十八年(1613年)四月に、近幾の切丈丹宗徒71名が十三潟付近に流されてきたという記録もある。 青森県は旧アイヌの地であり、流刑の地てもあった。 十三潟は鎌倉時代以来の良港で、荷物を満載した船がさかんに出入りして、京都付近の商人も移住している。 それと同時に、人買い商人にさらわれた女の大群も送り込まれてきた。 津軽美人の血にはこれらの影響が強いようだ。 この地域の人口の増加は遅々としていたが、気温が低く、湿田が多かったので、飢饉は年中行事のようにくり返された。 天明飢饉のような最悪の状態には、ヒガンパナの根から人肉まで食べた記録がある。 しかし、これに耐えた習慣は、この地方の人々に強い忍耐力とりっぱな根性を植えつけた。 2、津軽衆と南部衆の対立 青森県には、いまでも津軽衆と南部衆の根深い対立がある。 人々は互い津軽衆と南部衆の対立に、あいつは津軽者だとか、こいつば南部者だという意識をもち、青森県庁では知事がどちらの出身かによって官吏の地位が変わるとまていわれている。 その原因は津軽象の祖・大浦為信が、南部の属領から出ながら、豊臣秀吉の助けを得て独立した歴史にはじまる。 東の南部衆はいつまでも西の津軽衆を忘恩の徒として不快に思いつづけ、江戸末期には相馬太作事件として爆発した。 南部の旧臣相馬大作は、同志を糾合して、弘前に封じられた津軽藩主を討とうとし、警備の武士に固められながら大館に向かう津軽藩主の行列を襲い、地雷で多人数を殺した。 大作は藩主の駕籠に大砲を撃ち込もうとしたが果たさなかった。 江戸に逃げた大作は捕吏に捕えられ、文政五年(1822年)九月、斬罪にあって首を小塚原にさらされたと伝えられている。 しかし、この事件の真相はいまだによくわからない。 彼の墓を掘り、昭和になってからあらためて検証したが、いまの犯罪捜査の方法をもってしても動機は不明である。 利益か、感情か、旧君主に対する忠義という大義名分によるものか、じつは明らかではないが、いずれにせよ南部領と津軽領の対立が原因であることは事実である。 こんなしぶとい、ねっちりむっつりした行動様式は青森県人の特色ともいえるだろう。 3、青森弁は古代の標準語 青森県民の大多数は、奈良朝末から平安時代にかけての開拓移民を祖先にもっている。 開拓移民たちは当時の中央文化を持ったまま、いきなりこの辺境にやって来たのだが、その文化や生活様式はここでは停滞してあまり進歩も変化もしなかった。 その証拠に、青森弁といわれる方言は、アイヌ語とはぜんぜん関係のない純粋の日本語である。 しかし、それは千年近い昔の標準語で、いまは消滅してしまった古い発音やことばが残っているために「日舎ことば」にされてしまったのてある。 これを古語研究の貴重な資料と喜んてばかりもいられない。 青森の人を非社交的て自己閉鎖的に見せている一面は、この方言と大きいかかわりあいがあるといえるからてある。 しかし、恐山やイタコ巫女(みこ)などの、原始的で神秘的な信仰が生き残っていることは一つの魅力である。 古代的な呪術者は青森だけてなく秋田、岩手の村々でも見ることがてきるが、青森の場合はそれが組織された免許制をもっていることに大きな特徴がある。 したがって、いまだに各部落ごとに巫子がおり、巫子市が立っことも有名である。 コケシに着物を着せたようなオシラサマの信仰も興味深い。 コケシは胴体に着物の柄を描くが、元来はオシラサマのように着物を着ているもので、この御神体を子どもがなめると成長を促されるという信仰がある。 オシラ遊びは、巫子が男女二体のオシラサマをそれぞれ両手に持って操り、神がかりになって神の託宣を告げる。 これらは青森県に古い精神構造が停滞している証拠である。 私はある素封家の家で食事をごちそうになったことがあるが、主人を筆頭に家族が序列に従って席につき、一人ずつ箱膳(はこぜん)を使っているのに驚かされた。 しかし、その一方ではカラーテレピを見たりして、まさに古代と現代が共存しており、停滞的てある半面いつも新しくなりたいという願望は非常に大きなものがある。 4、意外な近代性も 恐山信仰やネブタ祭りの原始的神秘性や野生的な迫力は、この県出身の版画家棟方志功の作品によくあらわれている。 棟方は戦争が終わるまでは自分の作品を商業化する知恵がなく、はっぴを着た職人肌の版画家で、鍛治屋の徒弟といった感じだった。 戦後、柳宋悦に認められて以来、棟方は突然商業的な才能をひらめかして昔を知る人たちを驚かせた。 非常に封鎖的な人が、都会で急激にもてはやされると性格が「触発現象」を起こして極端な社交性や商売気を発揮するという一例である。 石坂洋次郎、菊岡久利、太宰治、葛西善蔵、高木彬光、寺山修司など多彩な文士がこの県から出ているが、いずれも地域性とは似つかわしくないハイカラな近代性をもっている。 『若い人』を書いた石坂を例にとるならば、もし彼が東京に出て慶応大学て教育を受けず、士地の教育を受けて地元の教員をしていたならば、作品の傾向も大きく違っていたことだろう。 評論家の羽仁もと子、松岡洋子・歌手の淡谷のり子、舞踊家の江口隆哉などに見られる近代性は、本人の能力もさることながら、環境の原始性に対する裏返しの意識がつくりあげたのてはないだろうか。 現在、県内の過疎化は日々激しくなっている。 5、6の市町を除いては、全県に人口滅の傾向が強まり、出稼ぎ労働者も多い。 一次産業への依存度が高く、観光開発ぐらいてはそれを補って労働人口を県内に定着させることは不可能てある。 性格的には、青森県人は概してお世辞は下手だが篤実て、勤勉てある。 ねばり強さも高く評値されている。 ただ少数の人に強い分裂質があり、社会的に脱落する危険がある。 しかし、極端な夢想型のロマンチストは少なく、自己中心といっても合理的な自分本位を主張する程度である。 また、自閉症に近い人も多いのて、孤独なさびしがりやが少なくない。 体型から見ると、西部には長身、長頭、胴短、長脚、色自、細型の京都型が多く、東部は短身、円顔、胴長、短脚で毛深い代表的な東北型が多数を占めている。 前者は近畿の血をひき、後者は関東とアイヌの影響を強く受けているのである。 津軽地方の人々は、概して民度が高く、社交的で、操欝質の明るいタィブも見られる。 しかし、現在は県内を襲いつつある生活革命が、県民性を日ごとに変えつつあるといえよう。 |