山梨県




1、風土が生んだ甲斐商人

 北に甲斐駒、南に富士山、まわりを高い山々に囲まれた山梨県は、文字どおり「甲斐(狭)の国」である。

 しかも昔から氾濫と水害で有名な釜無川があり、火山灰地で生産は低かった。

 “来たら寄ってくれよあばら家じゃけんど

 ぬるいお茶でも熱くする

 ハア ゴッション ゴッション

 いま「粘土節」という民謡は、古くは「土手築唄」と呼ばれ、昔から土手を築いて洪水の恐怖と戦ってきたきびしい生活の一端を示している。

 いまもなお信玄堤が釜無川から県民を守った恩恵が語りつがれている土地である。

 古くから鉱山を開発したのも、ブドウの栽培が起こったのも、この生産の低さを埋めるための努力であった。

 ブドウは山麓扇状地に適した植物だが、すでに元禄年間に栽培が行なわれており、芭蕉にもブドウの句がある。

 三百年前に果実栽培で生計をたてた例は、日本では非常に珍しい。

 それほど物産が少なかったので、よそへ出て働く必要に迫られ、帰ってきてもつまらないので徹底釣に精を出して成功する人があらわれた。

 それがいわゆる甲州商人である。

 また、いまの富士吉田を中心とする郡内地方は、江戸時代以来、桑を植えて養蚕をさかんに行なったので甲斐絹という名産を生み、これを開港した横浜に運んで仕入れ価格の六倍に売ったのが、甲州財閥第一号の若尾逸平であった。

 甲州の出稼ぎ行商人は大風呂敷に呉服物を包んで肩からかけ、村から村を勤勉にまわった。

 いや、勤勉にまわらなければ暮らせない士地柄であった。

 「甲州商人の通ったあとはペンペン草も生えない」といわれるが、これは甲州商人に限ったことではなく、近江でも伊勢でも、行商で成功した地方はみなやっかみ半合にそういわれるのである。

 行商人の歴史は、横浜と江戸の発展につれて大きな飛躍をする。

 “シルクロード”は上州と甲州の二つから横浜に続いていたので、その一つを通じて大資本家になる目を閉き、先人の手本を見て進出していったのだろう。

2、骨身惜しまぬ働き者

 「甲州べえと牛の糞には油断するな」というたとえがある。

 牛糞はうわぺは堅いが、うっかり踏むと中から柔かいのが出てえらいことになる。

 うわべと内面は大ちがいという意味である。

 さらに甲州人自身が「メカチャカモン」と呼ぶほど、りこうでずるく、すばしっこいという評判もある。

 とにかく、甲州人の中には、こうして他国で憎まれ、軽蔑され、一面恐れられながら、勤勉に、ときに大胆に立ち働いて成功する人が少なくなかった。

 これは悪条件下に生まれた者の宿命的な知恵であって、けっして悪くいうべきことではない。

 しかし、他国の怠け者にとっては、その成功ぶりがおもしろくないので、つい悪口の種になったのだろう。

 この県の悪条件は、自然環境ばかりではない。

 甲府城にいた柳沢吉里が転封されたあと、ここは天領となり、勤番づとめとして幕府直属の江戸の不良武士を、配流のように転任させる場所となってしまった。

 江戸からはみだした連中が為政者となったのだから、領民の苦しむのは当然である。

 政治の貧困も県民性をつくる大きな要素になった。

 農民は自分の力で、自然のきびしさと悪政に耐えながら生きる道をさがしあてなければならながったのである。

 山梨県の男には、女より働き者が多い。

 女は家を守って養蚕や織物に従事するのが精いっぱいだが、男は山腹を上下しながら農事に励み、出稼ぎや行商をして骨身惜しまず働いた。

 こうしてようやく生計を支えたが、それでも平均すると経済的には恵まれなかった。

 山梨県の風士と歴史は、陰気で反抗的な人、強気で積極的な人、利己的で打算の強い人、社会性が少なく孤立的な人など、いろいろな性格をつくった。

 貧しい土地と閉塞された盆地に生まれ、地域性が強いために足のひっぱりあいも激しいものがある。

 この県出身の大成功者はそれを振り切って伸びた人だが、その途中て自滅してしまった人もたくさんいるはずである。

 しかし、反面、執念を燃やし、一つのことに熱中して成功する人や、現実的な考え方とド根性で戦闘的な積極性を発揮して名を成す人もある。

 要するに山梨県人の性格に投影する山岳の姿は、美しい富士山ではなく、甲斐駒、八ケ岳、金鶏山など、鋸の歯のような連峰の鋭さである。

3、嫌虚さときびしさも

 武田信玄は県民の理想像だが、努力型という点を除けば、県民性のなかで稀少性をもっている。

 しかし、これに似た出身者に先代根津嘉一郎、旺文社の赤尾好夫などがいる。

 根津は骨身惜しまず働くタイプだが、さらに甲州人特有の道徳性をもっている。

 悪いことをしてまて偉くなるというのではなく、一生懸命努力して、まともなルートで成功しようとするのが根津の貴重な性格である。

 「一回でも世話になった人には生涯かけて尺くす」というのが根津家の家訓だという。

 赤尾好夫は若き日、みずからの手でガリ版を切り、英語の通信教育をやったことがあるが、それからはじめて今日に至るまで、彼は非常に道徳的で謙虚さを失わない。

 日本電気の小林宏治は、東大工学部出身の発明家だが、経営者としても非常な適応性を発揮して、一時つぶれかかった日本電気を一人て再建した。

 謙虚で、自分に対するきびしさをもった人だが、これは山梨県人全体を通じていえる美点てはないだろうか。

 この県の人の体型は、やはり中部山地型の筋骨質で、かん骨の張った小柄な人が多く、均整のとれない野武士型である。

 がっちりした山間労働向きの体質をもち、女には美人がきわめて少ない。

 ここも過疎に悩まされているが、近代企業を誘致する計画も少なく、観光地もとくに見るベきものがないので、この数年のうちに大きく性格を変えようとしている。

 小林中、小池厚之助、小佐野賢治らの財界人、作家の山本周五郎、大脳生理学の林たかしなどもこの県の出身である。