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1、古くから落町で発展 “酒は酒屋で 濃茶は茶屋で 三国女郎衆は 松ケ下 三国出村の 女郎衆の髪は 船頭さんには いかり綱 袈裟を忘れた 新地の茶屋へ 酔いがさめれば思い出す” この「三国節」に出てくる松ケ下、出村、新地はみな三国の遊里の名である。 ここは昔から三国小女郎で有名てあった。 “義理とまことに二人を立てりゃ あいだで小女郎の身が立たぬ” こういった小さな町に遊里が発達し、遊女の逸話が残るほど、福井県の港町は古くからにぎわっていた。 敷賀、小浜などの有名な港から、越前や若狭の物資が積み出された。 これは国内の需要を満たす移入港としてより、越前や若狭の背景になっている中部や近畿の外港としての役目が大きかった。 小浜は庄府や越前の米や肥料を移入して琵琶湖岸に運び、のちには美濃や伊勢の茶を運び出して、北海道から昆布や鱈を移入した。 敦賀は北陸の米や大豆を入れて大津に運び、呉服、綿、塩、茶などを北国へ移出した。 三国は北陸の魚肥、材木、大阪の砂糖、雑貨、徳島の藍玉を移入し、米、ムシロ、たばこ、蚊帳などを移出している。 なかでも敦賀は、日本の歴史に出てくる帰化人渡来のもっとも古い港である。 『日本書紀』によれば、崇神天皇のとき都怒我阿羅斯等(つるがあらしと)という朝鮮人が渡来し、都に連れて行かれて政府の要職についたという記述がある。 これが正確な史実かどうかわからないが、とにかく彼の名は敦賀の地名から出たものに相違ない。 能登半島の西岸に漂着した渤梅の使者も、この県を通って大和へ向かった。 いわぱ敦賀は古くから京都の北の門戸で、のちにはウラジオストックヘの門戸となったところである。 2、要領のよさと適応性 こうして福井県は、表日本と裏日本の物産の取次地となり、さらに北陸街道や北国街道を通じて京都や近畿と交易をはじめた。 江戸時代になると藩の殖産興業の一つとして機織りがさかんになり、積雪地帯の冬の家内工業として縮織、絹織物が生産された。 いまも機の数は福井県が日本一で、糸相場の変動はこの県にもっとも大きな影響を与えている。 絹織物は北国街道から京都に運ばれ、同じルートて北海道の干しニシンや干し鱈が京都にはいって、ニシンそばやいも棒などの京都名物となった。 高野川に浴って大原を通り北側から京都にはいる北国街道は、物資の流入路であると同時に、京都の貴族の“亡命の道”でもあった。 これも京都の影響をうける要因の一つである。 京都、近江の外港として、また北陸と近畿を結ぶ接点として発達した福井県は、当然文化水準が高くなり、気風の中に要領のよい適応性を育てた。 また、九頭龍川の氾濫、戦国時代に都の後背地としての宿命から戦場となった不幸、手工業を奨励しなければならなかったような農業生産の低さなど、自然と歴史の試練は、福井県人を一面では堅実な性格に仕上げたのである。 浄土真宗が門徒衆の組織を強化して農民生活を自衛させたのも、この貧しい農地の上で生活を維持する知恵からであった。 真宗の影響は、温和で、一見従順な性格をつくり、これが明るく社交的で、相手に警戒心を起こさせない商人としての適応性をも形成した。 理想家肌の人も少なくないが、県民の欠点は、強気に一つのことを最後まで仕上げるがんばりがないこと、人を統率して大きい成功を収める人が少ないことである。 どちらかというと器用で、思いつきはいいが気が変わりやすいところがある。 「越前サギ」というのは極端だが、適応性はすぐれているのに、要領がいいだけて一貫しないという弱点があるために、それを誇張してつけられたのだろう。 永平寺は禅僧の修行の場として今日でも有名である。 ここを開いた道元は福井県には関係のない人で、中国から帰朝後、山城国字治の興聖寺をつくったところ、彼に帰依する武士勢力が永平寺を開かせたのである。 北陸街道に近くて交通便利な上に、きびしい自然の中にある山間の谷間という条件が、禅修行の場としてここを選ぱせたのだろう。 しかし、この宗教はあまり脱俗に徹底しすぎていて、付近の住民を教化することはなかった。 教化するにはあまりに超脱の教義をもっていたのである。 やはり浄土真宗に見られるような、他力信仰、念仏三昧のほうが民衆にわかりやすく、受けいれられやすいので、今日でも真宗が一般人の心の素地をっくっている。 福井県内でも、越前と若狭ではだいぶ気風や体型がちがっている。 3、人情に厚い若挟の人 越前のほうは人情、体型ともに石川県と酷似しているが、特徴としては北九州や内海の体型の影響が見られることである。 それに対して若狭のほうは山多く、交通不便で、越前より生産が低いためか人情はよい。 そして、京都の影響を多く受けているので、整った京都型の細身の人が多い。 越前と若狭の微妙な差は、長い間の交易のちがいがあらわれているのかもしれない。 水上勉は若狭の人で、作品にもこの地方を背景としたものがあるが、むしろ教養も性格も京都的なものが定着しているとみられる。 若狭の人は人情にあつく、人なつこいといわれるが、これも京都に寄生してきた結果だろう。 水上勉も京都に出て、寺から学校に通うという少年時代を過ごした。 漁業をおもな生産としてきた若狭の人は、海洋的で開放的な一面ももっている。 主婦連の奥むめをがこの県の出身であることは、機織りによって女が現金収入を得る地域に共通した女権の強さの一端を示している。 男が子守りをして女が機織りをするような生活は、女の自覚が早く開けるという結果を生む。 これは風土性というよりむしろ歴史性だろう。 宮内庁の主厨長をつとめた秋山徳蔵、作家の高見順、心臓外科の榊原しげるなどもこの県の出身である。 しかし、いまや県全体に過疎化が進み、同時に性格にも大きな動きがみえはじめている。 |