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1、信義に厚い能登人 石川県は加賀国と能登国の二っから成っており、県民性にも若千の相違がある。 一口にいえば、能登地方は、金沢を中心とする南部に比べて保守的であり、開発が遅れていて消極的だが、人柄は誠実で信義に厚い。 これは江戸時代以後の発展の差によるものだが、古代では能登のほうが先にひらけた。 奈良朝以前から能登は大陸文化や仏教文化の門戸としての役目を果たし、奈良時代にはいってからも、しばしば渤海国の使者がここに渡来している。 いわば日本海に突き出た文化のアンテナであった。 しかし戦国の末、秀吉の命をうけた前田利家が加賀にはいったとき、能登はまだ長家の所領で生産が低く、やがて前田家が長家をおさえて県の全域を支配するようになっても、能登には炭焼きと海産物ぐらいしかみるぺきものがなかった。 江戸時代にはいっても同様で、金沢の人は長いこと能登四郡を軽蔑していたようてある。 日本最大の外様大名として入国した前田家は、徳川幕府の監視の中でよくすぐれだ文化的伝統藩を守って城下町を繁栄させ、所領を拡大したが、その経営はしつに巧妙をきわめ、江戸侍代におけるご三百大名の中て第一の能力を発揮した。 加賀藩は、はじめ百万石、のちに百四万石となった大藩で、江戸幕府四百万石の四分の一にあたる石高をもち、しがも北陸という遠隔の地にあるので、子藩と共謀して連合勢力をつくられたりしたら、幕府の大きな脅威になることは明らかであった。 そこで江戸幕府は、つねに加資藩に対する警戒を怠らなかった。 そこで藩主の前田綱紀は幕府の目をくらませるために文武両道のうちもっぱら文のほうに力を注ぎ、中央との緊張緩和を心がけた。 綱紀は郷里では明君てあったが、江戸に来ると鼻毛をのばし鼻水を垂らして暗君を装いながら、上方から商人や技術者を城下に移住させて着々と殖産興業に意を用い、藩の財政を安定させていったのである。 外見を文弱に見せるためではあったが、芸能の奨励はこの地の文化を非常に高める結果になった。 宝生の家元を保護して加賀宝生流の謡曲を育て、音曲を普及させたので、いまでも琴を習う人が多い。 俳諧や和歌も多くの人々に愛されるようになった。 これが金沢を中心とする石川県民の性格を明るく社交的にし、文学や工芸にすぐれた人と作品を生む結果をつくったのである。 泉鏡花、室生犀星、徳田秋声などの作品に、どこか腕のいい職人がじっくり積み上げたような洗練された味わいがうかがえるのは、彼らが文化都市金沢を背景として育ったからだろう。 前田家の政策ばかりでなく、この県は上方文化との接触や、人間の交流が多く、上方生活圏の東北端をなしている。 いまでも紅殻格子の京都風建物がこの地に分布しており、大阪の湯屋の大部合が石川県人といわれるのは、京都・大阪と古くから接触が多かったことの証拠である。 加賀四大温泉郷の湯女が全国的な知名度をもっていることも、上方との交流を物語るものの一つだろう。 “加賀の山中 おそろしところ 夜の夜中にししが出る というのは山中温泉。 “鳥は鳥でも 粟津の鳥は 男よろこぶ機嫌とり これは粟津温泉でのことで、ししは山中温泉の湯女、小島または錦帽子は粟津温泉の湯女、山代温泉ては太鼓の胴、片山津温泉てはかもという異名があるが、これらも京阪を通って全国に知られている。 城下町として栄えた全沢の美術、工芸、芸能もすべて京阪地方から伝わったものであり、商人も京阪と密着して繁栄した。 全県を覆う温柔な気風や、反応のスローモーさもまた京都的である。 石川県は、今日でこそ代表的な農業県だが、前田綱紀の天明開拓以前は、必ずしも生産能率は高くなかった。 そのために上方への出稼ぎが多かったことが、今日でもつねにこの県の人の目を関西地方に向けさせているのである。 2、旺盛な生活力 石川県人の多くは躁欝質で、明るく社交的だが、少数の分裂質が混っている。 それが自己閉塞的になり、論理的な思考で体系をつくると哲学者が生まれる。 西田幾太郎はその一例である。 金沢の人はプライドが高く、昔の四高出身者などは非常に結束が堅い。 いまも同郷意識や学問意識が旺盛で、互いに助けあうのは美点だが、悪くいえばよそ者を排撃する。 この欠点はずば抜けた人を出さない原因になっている。 温和で、自分を守ることが第一義という人の中から大成功者はあらわれないものてある。 「越中強盗に加賀乞食」ということばがある。 いずれも生活力の豊かさを皮肉ったことばと解すべきだが、その根本には古くから「加賀門徒」と呼ばれた真宗系信徒のねばり強い性格があるようだ。 門徒がこの地に広がった基盤は、戦国時代にある。 足利末期から、ここでは小さな大名たちが戦争をくり返し、農民は搾取きれ、しいたげられた。 そこへ万民救済思想である浄土真宗がばいってきたので、たちまち多くの信者を得て定着した。 加賀藩での門徒衆の反抗がのちの一向一揆になり、石山の合戦や長島一揆が起こるが、この地方ではあまり武力闘争をせず、自治的な相互救済制度をつくりあげた。 ただ、巨大な仏壇を作らされたり、本山の強い搾取をうけたりしたので、京都の本願寺は栄えたが、農民は別の意味て搾取されたともいえよう。 とにかく、加賀門徒のねばり強い性格は、島田清次郎を例外としても、深田久弥、杉森久英、などの作品にその一部をうかがうことがてきる。 一方、この県の人には、消極的で保守的、つきあいにくい面を持つ人と、情熱的で独善的、向こう見ずな一面を持つ人が混っている。 そして前に述べたように能登の人に保守的傾向が強い。 この能登の海岸には、いまでも季節になると全村が島に移住して潜海漁業を行なう海女の村が残っている。 水深20メートルの海中で貝や海藻を取る健康な婦人労懺者の姿は、まさに原始村落を見る思いである。 北九州の海人族の系統をひく人々の子孫だからだろうか。 こう考えてくると、石川県の人も文化も、方々からの寄り集まりが多いことがわかる。 住民の多くは近畿型で、楕円顔に筋肉質の肉体をもっており、小型でずんぐりしている。 女性は整った顔の人が多い。 いかにも温和に見えて案外性格のきつい人が少なくないのは、温和を装うことが生活の智恵であったからだろう。 世界的な禅学者鈴木大拙は金沢の出身、ホテル王となった犬丸徹三は小松の生れである。 その他、建築家の谷口吉郎、人間国宝,漆工芸の松田権六、油絵の宮本三郎、野鳥の研究家の中西悟堂、相撲協会理事長の武蔵川親方などがそれぞれ県民性の一面を代表している。 |