富山県




1、昔からさかんな海上交通

 “お風邪召すなと 耳までかけて

 主に聞かさぬ オワラ 暁の鐘

 “別れつらいと 小声でいえば

 しめる博多のオワラ 帯が泣く

 越中名物「オワラ節」にはなかなかいい文句が多い。

 ことにあとにつく囃子文句は、日本の民謡には珍しく軽妙で、奇抜である。

 (万人力なる 豪傑者でも 女にかけたら青菜に塩だよ)

 (浮いたかヒョウタン 軽そに流れる 行く先ア知らねど あの身になりたい)

 (三千世界を二度三度まわれど 眼についたお方は 主さん一人だ)

 これは大正10年(1921)、歌謡史で有名な芸者小原万龍が東京て流行させ、全国的に有名になったが、もとは山県バ歓の糸繰り歌てある。

 さらにそのもとは肥前平戸の捕鯨船の櫓漕ぎ歌だといわれる。

 民謡というものは伝播性が強く、相当遠距離のものがはいってくることが多いが、北九州のものが富山県に定着した例は珍しい。

 これは北回り廻船以前の時代に、北九州との海上交易がさかんに行なわれ、人や文化が伝わって来たことをあらわしている。

 また、“波の屋島を 遠くのがれきて

     薪とるちょう 深山べに”

 富山県五箇山の平家部落に伝わる「麦屋節」は、壇ノ浦から平家の落人がやってきたようすを歌っている。

 日本の方々にある平家部落のすべてが、ほんとうの平家の落人によってはじめられたとはいえないが、海上交通を利用すれば安芸の人が能登や越中に来ることは、思ったより容易であったにちがいない。

 富山県はこうして古くから海に顔を向けながらひらけてきた県である。

2、富山の人ば悪賢い?

 昔、福井県から新潟県までをひろく「越ノ国」と呼んだ。

 都からはるかかなたの僻遠の地、文化果てるところと思ったのだろうが、奈良朝以来の政府はこの一帯を開墾することにたいへんな情熱を傾けた。

 そして水田をひらき、近畿の民衆をここに移住させていった。

 大伴家持もいくつかの越中の歌を『万葉集』に残しているが、越中守に赴任した彼の任務もこの開拓と移民が主だったと思われる。

 神通川はいまでこそ上流の岐阜県神岡の三井拡山から出る廃液物のために、イタイイタイ病の元兇として“魔の川”と呼ばれているが、昔はこれが越中平野を灌漑して越中米を育てた“命の川”であった。

 富山湾は能登半島によって西からの海流や荒波を防ぎ、エビ、カニ、ホタルイカなどの海産物を恵み、この県は古くから豊かな環境であった。

 中世以後、近畿との交流がさかんになって、近畿型の標準的日本人の多い富山県人をつくりあげたが、江戸時代は搾取が激しく、冷害をうけやすいので一揆が多かった。

 元来の強気で抵抗心の強い気性がいっそう刺激されて、反発を呼んだのてある。

 これが大正七年(1918)の米騒動の源泉地ともなるので、そのために往々にして富山の人は悪質いといわれた。

 この非難は江戸時代からあった。

 元禄十三年(1700)の『人国記』に、「越中の人は陰気の中に智あり、倭なる気多し。按ずるに当国は山深くして、また海を抱けり。寒さ烈しく雪深し」と自然条件のせいにしたり、また「越中強盗」などと悪評を下したりしたが、これは明らかに誤解である。

 この県の人のずば抜けて勤勉な気性と、忍耐強く努力をつづけて成功するありさまを見て、怠け者たちがねたんで悪口をいったのだろう。

 しかし、この県の人には社会性にやや欠け、孤立的で自分自身を理解させようと努めないために敵をつくりやすいという欠点がある。

 これと持ち前の強気があわさって、「倭なる気」(ずる腎い)と思われたのだろう。

3、越中富山の薬売り

 富山県の県民性を知るうえ上で忘れてならないのは、「越中外山の薬売り」で有名な配置売薬である。

 これは世界無二の商法で、各戸に薬袋や薬箱を置き、こつこつと一軒ずつの得意先をまわって一年聞で使っただけの分を精算するものである。

 ところが、これは富山の独創ではない。

 昔は薬というものは大和を中心とした寺院の薬園で栽培された薬草からつくられ、施薬といって人々にほどこされたが、江戸時代にはいるころから寺院経営がむずかしくなって販売するようになり、信用のおける寺の信仰者集団に配置されたのが始まりである。

 それを富山商人が自分たちの商法に移し、江戸から東日本に広めた。

 腸内発酵を止める解毒・清涼剤の「万金丹」、強心剤「六神丸」、風邪薬の「葛根湯」をはじめ多くの膏薬を家々に配置して、江戸時代は日本人の保健衛生に大きな貢献をした。

 これはたいへんな労力を要する営業だが、それだけに、まず絶対に損のない商売でもある。

 信用を軸にして、何代にもわたって続けられる商売を考えつくのは、自分もまた誠実な証拠であり、いまもって鉄筋アパートの中まで富山の薬がはいり込んているのは、彼らの骨身措しまぬ実行力の結果である。

 この県の出身者には、薬屋の息子からサラリーマンになり、26年後に作家として世に出た源氏鶏太、強引な努力家・正力松太郎、力士からホテルの経営者になった大谷米太郎、清廉な政袷家として知られた松村謙三などがいる。