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1、古くからの出移稼ぎ労働 田中角栄内閣の出現以来、新潟の県民性とこの「今太間」の性格を重ねあわせてみる人が多くなったが、それは一面において正しく、ある反面では例外的現象のように思われる。 彼が非常にねばり強く、最後まで意志を曲げずに目的を達したところは新潟県的であるが、陽性で開放的なところは非新潟県的といえよう。 田中角栄が若くして東京へ出て苦学した結果、その性格に一種の「触発現象」を起こしたものと思われる。 新潟県は、大地主と零紬農家の格差がとくに著しいところで、大地主は昔の殿様以上の生活をして大庭園などを方々に残しているが、貧農は出稼ぎをしながら辛うじて生計を支えなければならなかった。 これが田中総理にも投影して、大邸宅や大別荘にあこがれを抱かせているのだろうか。 新潟といえば、つぎに連想するのが「おけさ」である。 “雪の新潟吹雪に暮れてョ 佐渡は寝たかや 灯は見えぬ これが「佐渡おけさ」か「越後おけさ」かはいろいろ論議のあるところだが、県内にはまだ多くの「おけさ」があり、明治以後の新作も少なくない。 第一「おけさ」の語源にしても定説がなく、桶屋佐助のフイゴ唄から起こったとか、袈裟踊りから出たとか、遊女おけいがはじめた唄だとか、九州の「ハイヤ節」が渡ってきたものだとか、諸説まちまちである。 しかし、とにかく一地方の民謡でこれほど周知なものはない。 それは、この県の人の広い範囲への出稼ぎと発展の歴土史がその裏にあるからである。 「頼まれれば越後からでも米搗きに来る」というたとえがあるように、江戸時代、この地方の人たちは冬期出稼ぎのために江戸まで出かけて行った。 侍は玄米を支給されるので、精米所のない時代であるから自家で米を搗かねばならない。 それで積雪地帯から多くの米搗き男が働きに来た。 女の場合は下女と遊女である。 また裸で稼げる風呂屋の三助に住みこんで、やがて親方から資本を借りて“のれん”分けし、独立をするがこの地域の貧しい人々が成功するための近道であった。 江戸の湯屋は越後、大阪は加賀の出身が支配権を持っていたことは有名で、いまなおその伝統が生き続けている。 これは信州と並んで新潟県人の勤勉と誠実の結果だろう。 縮布行商人も全国に独特の組織を作った。 毒消し、薬、各種商品の行商から越後獅子まで、冬期の休間労働力をフルに使って諸国を歩きまわったのは、むろん生産の低さによるものだが、ねばり強さで近江商人を圧倒して成功した例も少なくない。 このような他の地方に発展して行く商業活動は、北回り廻船ができる江戸時代以前からさかんで、裏日本の農産物、木材、絹布、干し魚などと、西日本の織物、陶器、雑賃などとの交易は、鎌倉時代以来の特色である。 信濃川や姫川を利用して、食塩、塩魚を陸内に運び、陸内から米や絹布を持ち出すことも昔くからの生業であった。 謡曲で知られる人買い商人問丸左衛門は直江津の男である。 寺泊、出雲崎、柚崎などにはこの種の商人がいて、港々に都付近から買い集められた遊女の大群が常在していた。 要するに県外進出も多ければ、県外からの流入も多く、千二百年前にはじめられた中央政府の移民政策以来、近畿型の体型と文化は長期にわたってこの県にはいり込んでいる。 いわゆる新潟美人は畿内型の血をひいた美女である。 2、良寛様は異例のタイプ 大愚良寛という奇行の多い坊さんは出雲崎の人である。 脱俗、無邪気、徹底した悟りの境地に達した人のようにいわれているが、現代の心理学ては分裂症の相当重症のほうに属する人だそうである。 彼は比較的良家の生まれだが、『徒然草』や「方丈記』の影響をうけて世捨て人的な性格になり、各地を歩いて人間の弱さ、はかなさ、美しさを知った。 故郷に帰った良寛は庵にはいって村の童子と遊ぷ日々を送ることになるが、幸い書がうまかったので江戸の文人との交流が多く、有名人になった。 彼自身は非常にPR性の強い人であり、それが世捨て人への志向と重なって今日の伝説や人間像をつくっている。 彼のこの二面性は弱気とエゴイズムから出たもので、地域性から見れば例外に属するものといえよう。 かつて良寛のような分裂症が、新潟県の県民性の一部をなしていたこともあるようだが、今日ではごく珍しいタイプである。 むしろねばり強さと勝気を内に秘めた、柔らかで温かい社交的人間がふえてきた。 女性は内向的で非社交的に見えるが案外明るく、黙々としてよく働く。 しかし、これは信濃川流域から南と西の畿内型が重なった地域のことで、小出を中心とする東部は西・東北型に属し、やや鈍重で閉鎖的である。 2、まとまりの悪い一面も 江戸時代の越後は、高田、新発田が十万石大名であるほかは小藩て、残りは代官が治める天領であった。 天領が多くはいっていると、その県のまとまりがあとあとまで悪いのが通例だが、新潟県人は商売の上ではよくまとまり、後輩のめんどうもよくみるようだ。 しかし政治的にはあまり結束せず、これがいわゆる出世主義の人を多く出さなかった理由と考えられる。 幕末、官軍が攻めて行ったときも、団結して対抗する気はなく、大地主が官軍に帰属すればみなそれに従うという気風であった。 江戸時代以来、新田開発によって生まれた豪農は、商業や運送の利権を握り、他の地方ではみられないような大資本家に成長している。 この大地主と零細農民の格差の過大化も、近代社会ではまとまりを悪くする一つの要因であった。 今日では、農地解放による格差の縮少や近代企業の進出によって、この県の様相は大きく変った。 しかしその一方、急激な過疎化の進行と若年労働者の離脱が新しい間題を提起している。 この県自身の“改造論”ともいうべき根本政策が要求されているようである。 |