|
|
|
1、相模女は尻軽者か? “三浦三崎は女の夜這い 男後生楽寝てくらす” 「三崎甚句」を引き合いに出すまでもなく、江戸では相模女を房州女と同様、浮気や尻軽の見本のようにいってきた。 相模から江戸に下女として働きにくる者が多かったので、なかには浮気者がいたかもしれないが、ほんとうは『誹風末摘花』などがおもしろおかしく作って有名にしたからである。 “一度して息子は相模灘にあい させるのをいれると相模八癖なり”(なくて七癖というから) をはじめ相模下女の字がはいった多くの艶笑川柳が、相模女の名を天下にひびかせてしまったのは気の毒な話である。 相模も浜通りは東海道の宿場を中心に旅行者の消費が農業生産の低さを補ったが、これといって現金収入のない中通り(大山参詣の道)から余剰労働力が江戸に来て下男や下女になった。 したがって、神奈川県の人がとくに好色というわけではないが大山参詣の帰路、旅宿て性の解放を味わったことも、相模女の伝説をつくりあげた理由の一つだろう。 秦野、伊勢原、厚木、町田などはみな大山の門前町である。 大山街道は、秦野付近の重要な物産であるタバコの、江戸へのルートとしても有名である。 古く武家政治が行なわれた鎌倉、中世関東武士団の中心であった小田原の城下町的性格、江戸っ子の遊山地としての江ノ島・鎌倉などの観光地的性格は、ともに県民性の中に定着し、決断心に乏しく、スタイリストで依存性の強い都市型の人間を育てた。 小田原の北条家が秀吉に亡ぼされるときの「小国原評定」は有名だが、そのとき豊臣方があげた北条家の侍の首は、みなオハグロを塗り、白粉をつけた顔だったので、豊臣側をびっくりさせたという記録が残っている。 2、淡泊な“浜っ子”気質 明治以後、横浜が東京の外港として発展し、横須賀が旧海軍の軍港となり、鎌倉、逗子が東京人の別荘地に、箱根が遊山地になって繁栄し、県民全体がもつ商人的性格が強められていった。 近代都市資本の進出は自由競争の気風を育てたが、一方、互いに仲間をひきずり下ろす癖もあらわれて、いまでも県民の結束は悪い。 だが県民性は、浜通り、中通り、三浦地方、山間部で多少差がある。 浜通りは依存的で悪がしこく、中通りは農民的て善良な努力型、三浦地方は漁業的で明るく、貧困だが正直、山間部は純朴だが少々がんこで順応性が少ないというような特徴をもっていた。 しかし、今日では浜通りはもちろん、中通りまで東京への通勤圏になり、横浜をはじめ東海道線、小田急浴線の市街地は善悪ともに東京と同じになってしまった。 横浜には“浜っ子”という性格がある。 沖仲仕を中心にして出稼ぎの人が集まったところなので、植民地的な開放感があり、初期の江戸っ子のような「宵越しの銭は持たない」という淡白な気性をつくった。 国際的な港町として神戸に似ているが、神戸には独特の文化が定着している。 横浜の伊勢佐木町や平沼橋などは明治以後の埋立地なので、文化的には東京に吸収されてしまっている。 この県の人は表面は強気を装うが、ほんとうは弱気の人が多く、やや神経質で繊細、ときには軽快を通り越して軽薄な人もいる。 長い間の都市的洗練によって進歩的ではあるが、がめつく、利己的な人も少なくない。 珍しく分裂質の人が多いのもこの県の特色の一つである。 いい面をあげれば、全体として明るく、社交的で、努力を惜しまない人が多く、まれに明治の詩人北村透谷のような文才をもった人も出る。 透谷は小田原の生まれ、家は代々小田原藩士であったが、上京して哲学を学び、横浜居留地のボーイになって英語を修めている。 3、足の引っ張りあいも……… 同じ神奈川県でも、東海道線国府津以西、小田急線松田以西の足柄上郡と下郡は、もと大久保藩の所領で、箱根峠の関所を守るという責任を負わされていた。 箱根の関は群馬県の碓氷峠とともに西日本文化が関東にはいるための陸の関門である。 そこで鎌倉に政府があろうと、小田原にあろうと、江戸に移ろうと、いつも一生懸命に関所を守らなけれぱならながった。 そのためには土地の人々が躯り出される。 小田原の北条氏滅亡のときなどは、総動員で秀吉の大軍と対戦させられた。 その結果、戦いはいつも敗北に終わり、いつとなく敗北主義が根ざしてしまったのである。 足のひっぱりあい、どんぐりの背くらべといったような弱点があるのは、それに原因しているとも思われる。 二宮尊徳はその短所を反省し、酒匂川治水に挺身して成功をおさめ、ついに雰細な金を集めて世界一古い信用組合制度をつくりあげた人である。 世間では彼の勤倹力行が評価されているが、私は農地改革や貯蓄の経済理論を身につけた偉大な農政家であり、科学者であると考えている。 このようなすぐれた合理性、道徳性、実行力を兼ねそなえている人は、ここの県民性を代表1ているわけではないが、神奈川県という環境に反応してまれに県民から出現する可能性のある、とを教えてくれる。 吉川英治の几帳面な性格や、人に対して報いることの厚い人柄は、横浜時代の苦難の中からできあがったものだが,依存性の強い小田原付近ではなかなか形成しにくい性格である。 体育の父と呼ばれた平沼亮三、経済学者左右田喜一郎もこの県の出身てある。 しかし、それにつづく教育家や学者は少ない。 今日、この県は山間部から三浦地方まてことごとく開発の波に襲われ、観光地やベッドタウンに変わりつつある。むしろ大東京圏の一部として人口も急増の一途をたどっている。 |