|
|
|
1、江戸は人の掃き溜め 古今を通じて、江戸−東京ほどとらえにくいところはない。 そこで、仮りにここでは江戸時代風の江戸っ子、明治・大正時代風の東京っ子、そして昭和時代の現代っ子と、三つの型に分けて観察してみることにしよう。 関東七平氏の一つである江戸太郎重長が支配した鎌倉時代の江戸、そして扇谷上杉の家老太田道灌の江戸、最後に徳川家の江戸と、三つの江戸は相互にほとんど関連のない別の街だと一応考えてよい。 慶長十八年(1613)家康がここにはいったころは、太田家の城下町はほとんど姿を消して、一寒村に近かった。 それがわずか80年後の元禄年間に80万、維新のときは120万の人口をもつ世界一の大都市に成長したのである。 その人口のうち、たえず交代した武士階級は一割足らず、他はすべて下級の職人や傭人などの町人であった。 土地も持たず家も持たず、技術だけで暮らす職人たちは、金持ちや為政者に対する抵抗意識を持ち、それが江戸っ子気質になった。 江戸っ子の典型であり、あこがれのタイプば歌舞伎の花川戸助六である。 意休という権力者と張り合い、意気と男らしさで女にもてる助六に、江戸市井の人々は非常な共感を抱いた。 こうした職人たちの居住地はいまの千代田区と中央区で、表通りは蔵造りの商家、裏はすべて横丁裏長屋の過密居住地、ここに貧困だが比較的楽天的な江戸っ子の生活があった。 「火事とケンカは江戸の花」というが、むしろ名物は火事と空っ風である。 夏は暑く、水に乏しく、冬は乾燥した関東ローム層台地が黄塵を吹きあげる。 居住地の条件はなかなかきびしかったが、将軍家四百万石のお膝元、諸大名の屋敷もあって、諸国の商人や職人が集まってきた。 「伊勢屋稲荷に犬の糞」といわれたほど伊勢出身の質屋が多く、酒屋は三河屋、湯屋は越後屋など江戸に店を張る商家の屋号は全国の地名に及んでいる。 まさに「江戸は人の掃き溜め」であり、このころから寄り合い世帯の植民地であった。 したがって、三代住めば江戸っ子といわれる。 約90年では江戸という郷土人の型はできようもないが、それほど交替が激しく、新渡来者が多かったのである。 2、江戸っ子気質とは? しかし、きびしい江戸の自然と強い階級的圧制下における零細所得者の生活は、人々の連帯感を深め、相互扶助の意識をつくって、結局は三代もたたないうちに一つの気風を形成した。 涙もろく、おせっかいで侠気に富んだ江戸っ子の性格は、弱い庶民の連帯意識の上に、生きる知恵として育っていったのである。 「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し」 ハラに一物もないという美点は、一方で粘りがなく、おっちょこちょいで軽はずみという欠点を生んだ。 植民地江戸は文化の底が浅く、郷土意識も歴史に根ざしたものが少ない。 ことに天災が多く、貯めてもすぐ火事にあうので「宵越しの銭」を貯めることがむずかしく、やがて貯めないことを美風にするような気風ができあがった。 よくいえば洒脱な性格や清潔な気風が育ったのである。 江戸っ子ほど将軍家を頂点とする残忍な封建制にしいたげられた人間も少ない。 三十人に一人の割合で、鈴ケ森や千住で斬罪に処せられているが、そのほとんどは御政道にそむいた不届者という罪状である。 しかし、江戸っ子は無知というか、執着心がないというか、将軍家の膝元であることを誇りと思い、江戸を大江戸、蒲焼も大蒲焼、偶田川も大川などと呼び、やたらに大の宇をつけて日本一を気取ったのである。 「箱根から東にコケと化物はいない」とカラいばりをするが、当時の怪談はほとんど江戸が舞台だし、幕府にたてついた赤穂浪士を熱狂的に支持するかと思うと、大川の白魚には徳川様の葵の紋がついているといってありがたがる。 江戸時代の上方文化を代表する近松門左衛門や井原西鶴の作品をみても、前者には儒教的な勧善懲悪主義が強く、後者は庶民的だが上方資本の蓄積を感じさせられる。 それに対して為永春水の『梅暦』などに代表きれる江戸文学には、下町のごくありふれた庶民の匂いがある。 これがかたや「上方贅六」、かたや「江戸っ子のカラいばり」という対立を生んだのだろう。 明治維新まで、同じ封建制下でも江戸より上方のほうがずっと近代的であった。 江戸っ子の美点と欠点をあわせもつ下町の下級町人の気質は、同時に日本人の一面を代表するものでもある。 しかし、このような江戸っ子の伝統を今日の東京で保持していくことは、まず不可能だろう。 ごく一部の人を除けば、江戸ははるか遠くになってしまったのである。 3、江戸から東京へ つぎに東京っ子の発生である。 明治維新はまず江戸の人口が半減するという形であらわれ、しだいに人間の交替がはじまった。 下町の町人住宅にはとくに極端な変化はなかったが、旗本住宅のある山の手の人々は、徳川慶喜について静岡に行ったりした。 その空家にどっと薩・長・土・肥出身の官員がはいりこんできた。 消費人口の回復によって活気はとり戻されたが、新たに山手の住人になった田舎出の官員やその家族、書生などは、東京に雑多な性格を持ち込んだのである。 各地からの寄り合い世帯だから方言同士では意味が通じない。 そこで江戸ことばと地方語の中間である“標準語”がつくられていく。 官員という新しい階級は、サラリーマン生活であると同侍に一種の小権力を持ち、これが権威に対してスタイリストを気取る山手気風を生んだ。 下町の下級町人は、時代の変革にはつんぼさじきに置かれていたし、交替の必要もなかったので、多くは古い気風を新しい時代に持ち伝えた。 しかし日清、日露の戦争を経験するころには、人口は幕末に倍増し、江戸っ子気質も新しい渡来者の中て日に日に薄められ、文明開化の風潮から取り残されてしまうのである。 たとえば夏目漱石の『坊っちやん』の主人公の侠気、短気、都会的エリート意識などは、みな古い江戸っ子気質のあらわれなのだが、ここでは単なる滑稽として笑いを提供する材料になり下っている。 読者は讃美の辞をもってではなく、批判者として苦笑し、冷笑する。 江戸っ子の末である漱石自身それを期待してこの文学を綴った。 ここに江戸っ子の“転落”がはじまったことを作者も認めているのである。 4、都会的なエゴイズム しかし、明治、大正の東京人にも都会的な開放感や親切な人情、洒脱な感覚などが豊富にみられる。 江戸っ子の生き残りというより、新しい東京気質の出発とみるべきだろう。 田舎の血縁や地縁を離れて新開地へ来たという意識は、他人への不干渉の気風を育てた。 よけいなおせっかいはしないという間はよかったが、これはやがて他人はどうてもいいというエゴイズムに変化する。 「往き大名に還り乞食」という無欲、無計画な江戸っ子は滅ったが、計算ずくて打算的な東京人がふえた。 これが東京に“人身災害”が多い原因であるとともに、一方では経済界での発展の一因となっている。 江戸のインテリは武士と僧侶が中心であったが、維新以後は姿を消し、政府の官員や軍人は薩・長・土・肥の出身に占められた。 江一戸っ子のはいる余地はなく、勢い経済界、学界、芸能界などで活躍する以外なかったので、江戸っ子の子孫はまだあまり出世コースにあらわれてこない。 都会的なエゴイズムは徒党を組んて助けあう習慣をつくらず、東京に県人会のような組織がないことも、明治、大正に名士が出なかった理由の一つであろう。 東京人には、わざと身なりや住居に無間心を装うタイプと、えらく体裁を気にするタイプがある。 ともに一種のスタイリストで、江戸時代にもあったが、明治の山手風俗の一つといえよう。 刺激が強くテンポが早い都会生活は、りこうそうな美しい人をつくる。 表情筋が緊張し、姿勢がよくなり、そのうえに洗練された好みや化粧の技術が加わるので、東京人は美しそうに演出されている。 標準語のビジネスライクな断定話法は、さらにこの効果を助けた。 江戸っ子、明治・大正の東京っ子を思わせるような性格の持ち主は、いまも下町などに少々認められるが、大部会は実利主義者、エゴイスト、依頼心の強いスタイリストである現代人に変わつてしまつた。 5、弱点も多い東京人 いまでは、いわゆる江戸っ子風の人間は数パーセントにすぎず、東京を郷土と意識する住民も10%に満たない。 関東大震災後の住民移動にはじまる昭和時代は、不況による農村人口の流入、第二次大戦と戦後の産業隆盛による大集中を経て、世界一の人口集中度をもつ今日の東京が出現した。 現代っ子の東京人は、都会的な明るさをもち、陽気で、適当に社交的で、反応が機敏である。 明るい一面は、各自の自由の承認、相互扶助、親切などの長所をつくるが、反面、都会的な孤立性は、身勝手、わがまま、社交のベールに包まれた孤独、内面的には深い寂しさをもつスタイリストなどを育て、衝動的で偶発的な行動に走ったり、他人の思惑を気にかけない自己本位の人が多くなった。 あきっぽく、意志が弱く、雷同性が強いのが東京人の弱点だろう。 群集心理は強いが連帯意識ば発達せず、野次馬的てくじけやすい。 しかし、長所としては、すべてにおいて貪欲なほど受容性が強いことがあげられる。 人も物も流行も拒否せず、不合理で古いものはどんどん捨ててしまう。 合理的で新しいものを抵抗なく取り入れる自由な態度は、一面植民地的な特色てあるが、今日の東京の発展と近代化の大きい力であることは否めない。 東京人自身、目まぐるしく変わることだけで好奇心を満足させていたのでは、根なし草的な都会しかてきないことを、よく知っているものと信じたい。 ところが、江戸っ子以来の東京土着者には、官僚や学者の一部を除けば、あまりぱっとした人物がいない。 生活水準の高さは日本一だが、それは“人物”を生む力と無関係なのかもしれない。 理想家、夢想家、親分肌、豪放磊落な開放的性格などが育たないのも東京の特徴である。 それほど人間関係が疎遠で、合理的な都会生活を送っているのだろう。 とにかく、現代東京の性格づくりは、これからの課題である。 それが植民地臭を脱する日に、近代東京っ子が輝かしく再誕生することだろう。 |