|
|
|
1、東京から流れ込む人口 埼玉県は人口増加数日本一、増加率においても大阪に次いで全国第二位である。 毎年8、90万人もふえつづけ、川口、浦和、大宮とびっしり人家がつづいて、どこからどこまてが何市だかわからなくなってしまったほどである。 増加人口の多くは東京都から流入したもので、埼王県は次第に副都心化しつつある。 東京という巨大な“植民地”の、そのまた“出先植民地”であり、極端ないい方をすれば埼王県はなくなってしまいそうなのである。 高崎線をパイプとして東京と文化の差はなくなり、県民性や郷土意識は消えて、東京の北区や葛飾区の延長のようになってしまった。 「駅弁大学」ということばがある。 駅弁を売っているくらいの町には必ず大学があるという皮肉だが、大学があり、県庁もあって駅弁がないのは浦和ぐらいのものである。 これは大都市郊外の通過地帯であることを物語っている。 こうしていまや埼王の県民性は南部から崩れはじめているが、西の秩父を中心とする山地には古い気風が残っている。 生産が低く、養蚕をつづけている地方で、そこの人々は平坦部の人を同じ県民とは思っていないくらいである。 非常に封鎖的で封建的な性格をもっている。 秩父地方の人間は、素朴て誠実、温和だが内部に激しさと息の長い実行力を秘めている。 秩父夜察り(毎年12月3日)のような文化水準の高さと驚くべきエネルギーを示す行事は、この地域性のあらわれだろう。 私は秩父の営林署を訪ねて地元の人たちに接したことがあるが、驚くほど人柄のいい人間が多い。 それだけにふだん抑圧されているものがあると見えて、お祭りで爆発的エネルギーを出すようだ。 人がいい代りに、いわゆる偉い人は出ないところである。 2、古い開拓の歴史 この県の開拓の歴史も古い。 すでに古墳時代、いまの行田、熊谷付近に埼王古墳群があり、近畿の文化を直接取り入れたことを示している。 この古墳群の中心は「風土記の丘」としていまもたいせっに保存されている。 県南には帰化人の開拓もあった。 開拓が進められたのは、荒川と利根川の浴岸地帯である。 奈良時代に武蔵の文化の中心が南部(東京都)に移り、国府もそこにできた。 しかし、鎌倉時代には鎌倉の、戦国時代には小田原の、江戸時代には江戸の、いずれも北の前哨地として、それぞれの権力を守る使命を果たし、各種の影響を受けた。 今日、また東京の北の副都心になって中央の影響を受けているのも、その立地案件からきた長い歴史的宿命の結果である。 この歴史性は埼玉の県民性を育てる決定的な力の一つとなっている。 古い中仙道浴いの宿場町が、いまでもこの県のおもな町である。 これらはつねに眼を江戸に向けて、農産物や絹の輸送とその見返り品の輪送で栄えた。 中仙道には団子や餅の名物がなく、芭蕉が通ったころはほとんど焼米ばかりで、幕末になるとこれが塩せんべいに発展した。 畑地のウルチ米でつくった塩せんべいは、やがて草加の名物になるが、草加へ行くとどの家も本家本元を名乗って分家は一軒もない。 そんなことを平気でやるのは都市的な性格で、これも県民性の一面だろう。 川越は、埼玉県内では珍しく商業都市の歴史をもっている。 江戸時代には小江戸といわれ、江戸浅草から十三里半の新河岸川で結ばれていた。 水利輸送は大量運送が可能であり、江戸との太いパイプとなったので、文化と物資はさかんに交流した。 “年期増しても食べたいものは 土手のきんつばサツマイモ と歌われたように、吉原遊女が年期を増しても食べたいというほど、サツマイモは当時のおいしいお菓子の一つであった。 サツマイモをあまり普及されると米が減収になるので、幕府が制限を加えたことも稀少価値を高めたようだ。 そのサツマイモは川越の名産である。 そこでサツマイモのことを十三里半と呼ぷようになった。 栗(九里)より(四里)うまいから十三里半という俗説があるが、実際は運河の長さから出たもので、ここに蔵造りの商家が多いのは、江戸文化吸収と生活水準の高さの象徴で、特色ある豊かな商家町として栄えた。 したがって、気風が商業的かつ文化的で、県内他地方と異なっている。 3、強気の裏に弱気も 渋沢栄一は、この県の山岳地域にあった持久力のいい面をもっている。 彼はその点で昔の埼玉県民性を代表しているといえよう。 偉大な経営者であり、事業家であり、最後まて一つの経済方針を貫いたが、反面、開放的で近代産業に対応できる柔軟な社会性をそなえていた。 埼玉の人は一見強気で、勝気を装ったりするが、ごり押しをして破局を招くようなことはしない。 ちやんと転身の機を心得ている人が多い。 そのために頼りないとか、あてにならないとか誤解されることもあるが、それはずるさから出たものではなく、強気の陰にひそむ弱気のせいである。 正直で、親切で、おだやかな人が多いが、小成に安んじ、やや狭量で足をひっぱりあう性格が多少見られる点が惜しまれる。 この県には大成功はしないまでも、思いつきがよかったり、独創性がすぐれている人が出ることがある。 また努力型の人も少なくない。 独創性と努力型が重なった典型は、児王郡本庄の西から出た盲目の学者塙保己一である。 盲目という特殊な条件があるので、彼の偉業をそのまま埼玉の県民性のあらわれとすることはてきないが、その持久力はあきらかに埼玉山岳部のものである。 この県にば操欝質、てんかん質、分裂質と性格は各種ひととおり揃っているような雑然としたものがある。 いわば植民地的で、人間交流や人的接触の多い地方共通の特色を示しているのである。 人の交流が激しいのて、体型にも統一牲がない。 しかし、どちらかといえば南関東型の楕円顔、比較的整った顔だちだが、色はあまり白くない人が多い。 美人は少ないが、全体としては整ったほうに属する。 田山花袋の『田舎教師』にあるような人情も風土も、今日ではすっかり消え去ろうとしている。 |